琉球留記?〜浦添朝満(尚維衡)の向こう側

 尚維衡(しょう・いこう、浦添朝満;うらそえ・ちょうまん、以降、朝満という)については、実はよく分からない。といっても、史上の話ではなく、わたくしの頭の中でのことである。朝満は例えば祖父(尚円)について、あるいは、その弟(尚宣威=こちらも祖父)について、父親(尚真)から、あるいは母親(居仁=尚宣威の娘)から、どう聞いていたのであろうかと想像すると、わたくしが、その立場であったなら(ありようはないが)、おおいに困惑するのではないかと思ってしまうからである。1494年に生まれており、もちろん、もう尚真王の時代であり、三つ違いの弟、中城王子(のちの第4代王、尚清;しょう・せい)などもいた。普通に過ごせば、次期王となる身分(王妃の長子)である。もうすでに、母方の祖父にあたる宣威はこの世にいないけれども、父(真)から、立派な人(叔父)だったとでも聞かされていたのであろうか。わたくしごとで申し訳ないが、幸いというのか、もちろん、期間の長短、接し方の濃淡は異なっているけれども、母方の祖父を除けば、祖父母とわたくしは現実に時間を共有することができた。したがって、自分の中に祖父母の存在がぼやっとした記憶の向こう側にわずかにある。しかし、朝満の向こう側は想像および伝聞という手法でしか啓くことができなかったはずである。母親(尚真王妃)は当然ながら祖父(尚宣威)のことを小声ながらも、口調は強く、「あなた(維衡)が世を継ぐのよ」というようなことを常々言っていたのかもしれない。繰り返すが、父親(尚真)もやはり、周り(オギヤカや夫人など)を気にしながら、宣威を悪くいい伝えるはずがない。ただし、朝満は父母の良い話ばかりに耳を傾けていたのではなかったのであろう。彼の想像力の問題である。(決して、良いことばかりではない)と意外と冷静に自分の置かれた立場をみていたのかもしれない。史上では、祖母にあたるオギヤカや異母弟(のちの尚清)の母である華后らの策略により、朝満は王の相続権を剥奪(廃嫡)されたとあるが、自ら、それを望んだと考えることもできる。「いや(厭)けがさした」というのであろうか、それが、彼の想像力が定めた結果であるのかもしれない。朝満は岳父(夫人の父親)を頼って、その字(あざな)のとおり浦添へ移った。義理の父というのは第一尚氏時代から重用されていたという家柄とあるが、そのことで、維衡が邪魔になったわけではないのであろう。仮に、そう考えるにしても、祖父である宣威の夫人(王妃)が誰かが分からない中では、それ以上の妄想を進めることはできない。歴史の上では、宣威そして維衡と第二尚氏王統の反主流が遠ざけられ、オギヤカらの意図どおり、以降、主流が王統を継いでいくはずであった。
 しかし、そうは、ならなかった。
第二尚氏王統系図(抄)]
第二尚氏系図
 尚寧には第7代王としての心づもりはなかったと考えることもできる。6代(尚永=しょう・えい)にはお世継が生まれなかったこと、また、(尚永の)弟(大金武王子)尚久がお世継ぎを断ったため(これも不思議)、息女の婿という立場から、即位したらしい。いわば、傍流であるけれども、その糸を手繰れば、尚宣威そして尚維衡へといきつき、遠ざけられたはずの反主流にあった。拙い図であるが、尚稷(しょう・しょく)から尚寧までの系統を整理してみた(↑上図)。図で結んだ赤い線(糸)で「反主流」の王位復活を示したつもりである。ただし、もう、この頃には、第二尚氏王統内における世継ぎにまつわる目立った反目もないようであり、尚寧の即位を薦めた尚久の子、尚豊が第8代となり、その後、玉陵の東室には王と王妃が仲良く安置されており、陵内をみる限りでは「安寧」の時代を迎えたといえる。(参考;拙ブロ「琉球留記?玉陵(たまうどぅん)07年9月8日付」の[被葬者(歴代王、王妃)] )

 尚寧は鹿児島(島津)藩の琉球侵略(1609年)による泥濘(ぬかるみ)の時代を受け容れ、その後の琉球を変える。
 袋中(たいちゅう)上人との遭遇が大きく関わっているというが、それについては、引き続き、考えてみる。