琉球留記?玉陵(たまうどぅん)

 とうとう、最後の日になってしまった。明日(11日)の今頃は、もうここ(琉球)にはいない。そういう瀬戸際になって、想ったのはやはり、首里へ行こうということ。また、忘れ物もたくさんあった。グスクの反対側に、ひっそりと、玉陵(たまうどぅん)はある。霊御殿(たまうどぅん)ともいう。玉=霊、そのことで、霊を祀る場所であることが想像できる。原則的には、第二尚氏王統の陵墓である。
 第一尚氏はというと、尚思招は「佐敷ようどれ」に、二代・尚巴志、三代・尚忠、四代・尚思達は読谷村(よみたん・そん)伊良皆(いらみな)のサシジャームイ(佐敷森)にあるという説(琉球王国)もあるが、一方で首里・天山陵を巴志の墓とする説(県立図書館)もあり、わたくしには分からないし、どちらでも良いという気もしている。ただ、第二尚氏王統に滅ぼされた系統の墓陵が切っ先にあるというのは、やはり落ち着かないのであろう、天山⇒佐敷森というのが妥当かもしれない。それ以上のことについては、調べる気分にない。読谷村伊良皆を電子地図で検めると、嘉手納空軍基地に呑みこまれそうな位置にあり、ふと下(南)をみると、嘉手納町屋良があり、阿麻和利(拙ブロ;琉球留記?東アジアを〓みかけた男〜勝連城「痕」07年8月19日付)が生まれ、棄てた(棄てられた)土地でもあり、また、彼の墓というのが読谷村古堅(ふるげん)地区にあるという。
 さて、玉陵は第三代尚真王により、初代の第二尚王である円王のために築造されたと、現地で頂いた小冊子に書かれている。この日も暑かったけれども、首里城と違い、木陰が多い分、コッチの方が有利である。しかも、さして、広くはない。(首里城;約2.5haに対して、その約1/10)もっとも、玉陵は首里グスクの一部と考える方が妥当で、とりたてて、分けて、比較することもない。陵内に入ると、手前に管理事務所があって、観覧券を支払う。ユイレールの駅で、ここも、一日乗車券を購入すると、大人200円が100円になると知っていたので、牧志駅で、そうしていた。細かい話であるが、牧志首里は片道230円、単純に求めれば660円(460円+200円)である。もちろん、1日券(600円)の方が高くなるが、そういう趣旨(企画の意図)はありがたいです、という意思をあらわすつもりでのことである。ただし、首里城内に入れば、(正価1,460円−割引価1,340円※)になるので、断然!お徳であり、残った(浮いた)金銭でもって、レストセンターの売店島とうがらし入りソーセージ(105円だったか)を買うことができる。
※通常料金の場合
 牧志首里 230円×2回=460円
 玉陵観覧料 200円
 首里城公園 800円、で、合計1,460円
※1日乗車券の場合
 (1日券) 600(プラス140円)
 玉陵観覧料 100円(▲100円)
 首里城公園 640円(▲800円)、で、合計1,340円
 最初に寄った管理事務所の地階に小さな展示室があるけれども、中味がぎっしりと詰まっている。先ほど外側から望ませていただいた東・中・西の各室内が模型として展示されている。前もって、紹介しておくと、「沖縄の世界遺産」というサイトで、今回の琉球留記でも、かなり、お世話になっている。この日は、筆記用具をもっていておらず(手ぶら)、書き留めることはできず、もちろん記憶に頼ることは不可能に近い。そのような状況の中で、上記サイトにある「被葬者一覧」によって、忘れかけた(忘れてしまった)その場で感じた想いを、辛うじて、引き戻していただいている。残念ながら、わたくしのブラウザに合っていないのか、画像が乱れていたので、無断ではあるが、エクセルに移してみた。そのうえで、少し、思ったことを書き留めたい。玉陵の核は東・中・西の各室である。中室は「洗骨」といって、亡(遺)骸を安置し、時間を経て、洗い清めた(洗骨)うえで、納骨する(東・西室)という琉球における先祖への弔い方を実践する場所である。もちろん、内部に入ることはできないけれども、おおかたのさまが、先の展示室で分かる。模型でもってみると、東・西室内には存外、大雑把に棺(厨子)が置かれ、整然感がない、それ(並べ方)にも何か意味があるのかもしれないが、今は確かめようがない。頭の中と指でもって、東室と西室の棺の関係を憶えていたつもりであるが、↑に書いたとおり、「沖縄の世界遺産」サイトに頼るしかなかった。ただ、中室に一棺だけ安置されていたのは、やはり印象的である。そのことについては、また、記したいと思う。
 中室における 洗骨というのは特別、琉球のみならず(東)アジア全般にもあって、床下埋葬というのも、そのような弔い方の過程のような気もするし、わたくしども、本土にも土葬というのが、つい最近まで広い地域において行なわれており、いったん埋葬し、何年か後に、洗骨をしたうえで、二次葬するということもあったという。以下は、わたくしの、想像である。骨と肉の比較をしている。弔った先祖の体を祀るのはミイラという方法があるけれども、わたくしどもには間遠な儀式である。むしろ、肉一切を絶って、骨として、遺すことのほうが一般的である。現在ではもっとも多い火葬はそのひとつである(ただし、機械的に過ぎるところがあるけれども)。もちろん、衛生上という理由を考えに含んでおかなければいけないが、結果だけみると、肉より骨である。もう少し、想像を勝手に拡げると、わたくしどもは、獣・魚肉を食べるが、骨は残すという、当たり前である食の行為を行なっている。これも、歯牙の強さに関わる部分があるが、わたくしども以外は食べ尽くすのが一般的であることと考えあわせれば、やはり骨に霊が宿っているという信じ方が普通なのかもしれない。それゆえ、骨を洗い、再度、葬る、肉より骨の方が物理的に「もつ」という合理的な面も含め、それが本来の弔いなのであろうか、そういう、つまらぬことを考えている。
 余計な方向に曲がってしまった、玉陵の話に戻る。「沖縄の世界遺産」による被葬者一覧を、わたくしなりに整理してみた。少し、単純化して、左欄に歴代の王を順番に安置し、右欄に王妃(尚典については夫人と記す)を照らしてみた。(実際には、東室に王・王妃、西室に子息、息女、夫人などが納められている。
[被葬者(歴代王、王妃)]
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「沖縄の世界遺産/玉陵/被葬者一覧」
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 みると、第8代尚豊以降については、王妃ともども、「仲良く」置かれていることが分かる。想像すれば、世が安寧であったということにもなろう(ただし、島津藩の侵略というコトの上に成り立っている)。時代を第二尚氏初代王である尚円から順に追ってみる。第2代「尚宣威(しょう・せんい)」、そして、7代「尚寧(しょう・ねい)」の名が玉陵にない。繰り返すが、8代以降は仲良く安置されていることを思えば、第二尚氏王統の成立期150年あまり(王統全体19代で約400年)の動乱期がのぞきみえてくる(16代尚成=しょう・せい、は幼くして即位したが、3〜5歳で崩御しているので未婚)。なお、もう一人、表中、青く標した「尚維衡(しょう・いこう)」は王位にはついていないが3代尚真の長子である。玉陵被葬者一覧では確認できないが、いったん、「浦添ようどれ」に埋葬され、のちに第4代尚清(しょう・せい=維衡の異母弟)によって、玉陵に遷葬されたという(同一覧の西室に維衡長女の名もある)。
 このこと(宣威、寧、維衡ら)について、引き続き、妄想している。