琉球留記?マチヤグヮーとマチグヮー

 「マチヤグヮー」とは繊細な言葉である。マチヤがお店で、グヮーは小さなというような意味らしい。「沖縄コンパクト事典」(琉球新報社編)では以下の丁寧な説明があって、琉球の庶民にとってのマチヤグヮーの役割というものが、よく分かる。
[マチヤグヮー;沖縄独特の日用雑貨店。住宅街に点在し、生活用品から食料品などの販売、庶民の生活を支えてきた。米、野菜、豆腐など、肉や魚以外のものはほとんどすべてがマチヤグヮーで手に入れることができた」
 何でも屋さんということであろうか、本土にも、それに近いお店がある。近頃ではよほどの地方に行かないかぎり、みかけることはできなくなった。今風にいえば町場のコンビニであるけれども、趣きはまったく異なっている。以前、住んでいた最寄りに「よろづや」さんというスーパーマーケットがあって、ここは生鮮品も置いてあり(コンパクト事典があらわす時代と異なり、こちらは冷蔵技術も加わっているので、生鮮も置ける。また、現代のマチヤグヮーは、以上のような理由から、肉・魚を扱かうことができる)、マチヤグヮーをちょっと大振りにしたようなお店であった。気になって、調べてみると、より大型のSCなどに押し潰されてしまったかなぁと案じたけれども、ご健在のようである。ただし、先、コンパクト事典の説明には「マチグヮーで手に入れることができた」と、過去の表現になっており、その(マチヤグヮー)存在が次第に失われているということも、残念ながら、事実のようである。
 「ヤ」がとれて、マチグヮーになると「市(場)」であるという説明がある。
 今、『琉球語音声データベース』(沖縄言語研究センター:琉球大学内)という、まことに便利な、まさに、琉球言葉のマチヤグヮーのようなサイトを参照にしている。
[マチグヮー;市(いち)。市場。芋や野菜類、豚肉、魚などを売っていた。ふつう、営業時間がみじかく、規模も小さい]とある。那覇市内にある、お馴染みの牧志公設市場や農連市場などはこれに当たるのだろうか。ただし、やはり、グヮーなので、小さい市(マチ)ということなってしまう。「マチ」とは「市(いち)」のことであり、グヮーは先のとおり「小さい」という意味であるから、↑データベースの説明どおり、厳密にあらわせば、営業時間が短く、規模も小さい市場をマチグヮーということになる。農連はそれに当たるかもしれないけれども、牧志市場周辺については、もはや、その域を通り越しているのであろう。もちろん、市民の台所という意味合いから、観光施設化しているということであるけれども、それでも、あの迷路のようなマチの「なり」はとても素的である。
 では、と、マチヤグヮーに戻ると、真ん中にある「ヤ」が分からない。家(ヤ)であろうか。そう思い込んで、考えると、マチヤは市に建つお店ということになる。露店、出店は含まれない、こちらは集合体として、マチグヮーになるのであろうか。その辺りの繊細な部分が、そうでない、わたくしには分からない。そもそも、マチは本土語でいえば、町(街)であり、これも、もとは、市(マチ)の発展系あるいは固定化によるものである。何だか、分からないけれども、自然発生的に、近在から人々が集まってきて、そこ(広場のような、だだ広い場所)での物々交換から始まる。それが市(マチ)の発祥であり、いつのまにか、そこに居つく人々も出てきて、町(街)となる。そんな風に大雑把に整理すると、琉球におけるマチは、町(街)がマチ(市場)のままで、本土のマチが町(街)となって、壊れていったのに反して、今もなお、町(街)の原型であるマチとして、存在している・・・ややこしいけれども、そういうようなことを考えながら、一筋一筋ほっついていた。残念ながら、閉まっているお店もあるけれど、周りがカバーしている、そういう気分でもある。
 とはいえ、今回はマチグヮーには1年半前ほど行っていない。いつもの定食屋さんには一度しか行っておらず(また、野菜そばを頂いた、美味!)、農連市場もすでに閉じている時間帯に、せめて、なりだけはみておこうと、通りかかっただけである。この日(9日)も、ちょっと気になっている場所があり、用件もあり、マチグヮーには行かずに、反対方向の、昨日、お世話になった安里川に出て、崇元寺の石門を訪ねた。この前の通りは崇元寺通りといって、市内線や市外線問わず、バスでよく往き来する場所で、その度に、この「お寺」が気になっていた。お寺といっても、その特異な石門しか残っていない。他は、沖縄戦によって、破壊されたということであるが、前記「沖縄コンパクト事典」によれば、「那覇市安里川ほとりにあった臨済宗の寺。山号は霊徳山。沖縄戦で堂宇(註1)は壊滅、辛うじて、三つのアーチ門のある石垣前面部が残っているのみ。歴代国王の霊位を祭る国廟で、冊封使は王の柵封に先立ち、ここで先王の論祭(註2)を行なった。創建は尚巴志王代、尚円王代、尚真王代とはっきりしないが、残されている「下馬碑」は尚清王即位(1527年)の時に建てられたもので、このころに落成したとも考えられている。石門は国指定重要文化財。」とある。
(註1)堂宇;堂の建物、つまり、お寺本体をさす
(註2)弔いの儀式
 要するに、よく分からないらしい。他のサイトにおいても、16世紀に建立とあるが、特定はできていない。尚巴志の時代に始まり、尚清時代になって、ようやく完成したと考えて良いのかもしれない。ほぼ1世紀かけてということであろうか。サグラダ・ファミリア(聖家族教会)並みである(もっとも、コッチはまだできていないらしい)。独特の石門が目を惹くけれども、その裏は、単なる公園でしかない。(暑いからか)人もいない、とりたてて、みるべきでもないのであろうか。確かに、そこでの居心地時間は短い。
 「琉球留記?琉球が織りなす」で御物城について書いたが、只今は米軍基地の端っこにひっそりとある、この土地も往時は小島であり、現在の那覇市の大半は海であったとも書いた。ただし、首里城と浮島(今の若狭・松山・久米辺り)を結ぶ、今でいえば海中道路が、崇元寺付近から延びていたそうである。「長虹堤(ちょうこうてい)」という。当時、琉球は東アジアとの貿易により栄えており、浅瀬の多い那覇港に入りきれない明船などは、いったん、浮島に碇を下ろし、そこから、崇元寺の際に渡ったらしい。冊封使一行は、まず、ここで、王のご先祖を弔ったとあるが、意図的な、儀式的な面もあったようにも思われる。ただし、崇元寺については、今回は忘れものとなってしまった。臨済宗のお寺である。わたくしの知る範囲では東福寺(紅葉が有名)、南禅寺(湯豆腐が有名)程度しかない。次回、また、お邪魔しようと、往時あったという堤とは逆方向に歩き、安里交差点を渡って、散髪を済ますと(これが用件)、昼間の栄町マチグヮーに。狭い中通りで、偶然、見つけた看板を頼りに(誘われて)、定食屋さんへと。グルクンも付いているというお刺身4点盛定食を頼み、うっかりご飯半分という、わがままな注文を忘れたのにもかかわらず、すべて、食べてしまった(お刺身のほかに、てんぷら2品付き)。そのせいか、体が重く、もう、歩く元気もなく、ユイレールを一駅間だけ乗って、牧志まで戻った。