琉球留記?東アジアを〓みかけた男〜勝連城「痕」

 琉球は広い、そう思いながらのバスでの往復である。牧志の市外線バス停を10時過ぎに発ち、勝連(かつれん)城(グスク)跡に近い西原停に着いたのが、もう昼前後であった。やはり、暑い日であった。近くに営業中のお店があって、ジンギスカンとある。中には先客があって、ラム肉入りそばを食べていらした。わたくしには、少し重そうなので、ミニそばとオリオンビールを頂き、お城めぐりに備えた。
 一度、琉球の歴史をざらっと、おさらいしてみる。舜天王統時代からでよいだろうか。舜天(しゅんてん)王即位は1187年、英祖(えいそ)王統(1260年〜)を経て、察度・武寧の察度(さっと)王朝が中山王を名乗り、中国(明)より冊封を受けている。「拙ブロ、琉球留記?識名園(07年7月16日付)」
 ところで、現在、世界遺産に登録されているグスク(城)群 (今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、首里城跡)はごく一部であり、11世紀には各地にグスクが築城され、あいまいな形ではあったものの、国(領地)という概念がすでにあって、のちに本土で言えば豪族に当たるのであろうか、按司あじ)たちが、勢力を競い合うようになって、より明確な領主の居城(砦)という存在になった。ただし、一律にそうとも言えないようである。第一、グスク=城というのも便宜的なことであり、本土の城ともどこか異なる。もちろん、単なる一般の住居でないことは違いないのであろう。むしろ、神の拠所(御嶽:ウタキ)との関連性が強い、そういう気もする。
 按司の闘いは13〜14世紀ごろには三山時代といわれる北山、中山、南山にほぼ統一される。佐敷の按司であった尚思紹(しょう・ししょう)、巴志(はし)親子は南山の大里王統を攻めるが、目的はそこにはなく、中山王統にあった。1406年、武寧を倒した尚氏は中山王を名乗り、16年に北山、29年に南山を落とし、琉球の統一を「ほぼ」果たした。(第一尚王統の誕生)組織であらわせば、国王がいて、そのもとに按司が仕えるという図式になったのであろうか。第二尚王統(1470年〜)になって、按司浦添から遷都された首里首里城の原型は以前からあったが、遷都は1406年以降との説がある)に集められることになるが、それ以前は、まだ、地方では按司が力をもっていたことになる。
 勝連グスクの話である。ほぼ全土を統一した第一尚氏は以降7代続くが、6代目泰久(たいきゅう)の時代に一人の人物(按司)がいた。それが、東アジアを〓みかけた男、勝連グスクの第10代按司「阿麻和利(あまわり)」である。10代といっても世継ぎではなく、茂知附按司(もちづき・あじ)を襲って、襲った(あとをひき継いだ)。彼については、詳しいことはよく分からない。沖縄コンパクト事典(琉球新報社編)によると、北谷(ちゃたん)間切屋良村(註:現在の嘉手納町屋良付近か?間切は、現在でいう市町村単位の呼称)の農家に生まれたという口伝があると書かれている。嘉手納は1948年に基地のために、北谷から分村した町(間切)である。勝連行きのバスからみると、コザ市街地にさしかかった頃に広大な(約20k?、嘉手納町に占める比率は8割)嘉手納空軍基地を隔てた向こう側にある。みると、といっても、もちろん見えない。阿麻和利は何を思って、西海岸に近い嘉手納を出て、東海岸に突き出る勝連(与勝)半島へ向かったのであろうか。
[勝連グスク跡]
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 勝連城跡休憩所といって、グスクの麓、道路を挟んだ反対側にある市の施設で、観光ボランティアの方たちが詰めていて、団体客や希望される観光客に案内をしているらしい。グスクを下り、ここに涼を求めて、入ったときに、ちょうど、お役目があったらしく、一人の初老の方がハンドマイク片手に外へ出られた。他のボランティアの方が、今日のはちょっと大きいので、重いかもしれませんと渡したマイクは確かにラッパみたいに立派ななりで、グスクを去り、バス停(着時刻まで時間があったので、1停飛ばして、先の照間で歩いてみた)に向かう際、風に流されて、仔細は聞こえなかったものの、たいていのことが、鳴り響いて、聴こえてきた。
 同所で頂いた小冊子(うるま市教育委員会)には、阿麻和利は小さい頃、病弱で、山に捨てられたとある。(労力としての役割ができなかったからか?)であれば、屋良には戻らないであろう、また、悲しいあるいは辛い想いのある西に行くより、何も知らないけれど、それゆえ夢がありそうな東へと向かったのであろう。琉球首里那覇)では東をアガリ、西をイリというそうである。(ニシは北、南はフェー)そこらへんにも、アマワリの気概が感じられる。実際、勝連は前にも増して栄えた(アガった)。
 『おもろさうし』は琉球における最初の歌謡集である。中に、阿麻和利および勝連グスクに関する謡いも収録されていて、「沖縄通信2005年4月号」より引用すると、
 《勝連の阿麻和利、十百歳(とひゃくさ)、ちよわれ(千年もこの勝連を治めよ)・・・》
 《勝連わ、何(なお)にぎや、たとゑる、大和の、鎌倉に、たとゑる》
 などがある。
 前者は、「若くして勝連の按司となった阿麻和利は、人々から慕われた・・・」(前出、小冊子より)を裏づけているようだし、その繁栄ぶりが後者によって謳われている。
 尚氏にとっては当然ながら、畏怖となる。護佐丸(ごさまる)といって、阿麻和利を鏡で映した向こう側に居るような男がいた。巴志らとともに北山を攻め、討つなど、王統に随(したが)った有力な按司であったが、1458年、泰久王の命によって、中城湾という鏡面を隔てて、勝連グスクと対峙した中グスクに構えていた護佐丸を阿麻和利が討つ事件は琉球史上でも有名なお話である。一方、王は娘を阿麻和利に嫁がせてもいる。百十(百度)踏揚(むむ[もも]とふみあがり)である。少し、急ぐが、護佐丸を制した阿麻和利は首里(王府)を攻めようとするのだが、踏揚と旧来からの彼女のお付き(恋人という説もあり、こちらの方が話は膨らんでいくのであろう)である鬼大城[うにうふぐすく)、または大城賢雄(うふぐすく・けんゆう)]の報せにより、叛乱を察知した王は鬼大城を阿麻和利に向けて、彼を討ちとった(1458年)。これによって、第一尚王統は安寧を得たともいえるが、阿麻和利という強力なレジスタンス(護佐丸もそれに近いとも考えることができよう)があらわれ、その対応に迫られていたということから思えば、すでに、王統としての求心力が弱まっていたのであろう。12年後(1470年)に、第二尚王統にその席を譲っている。百十踏揚は鬼大城と再婚するが、夫は第二王統派により斃れ、彼女自身は失意の余生を送った(らしい)。
 踏揚を考えていると、督姫に想いがいく。徳川家康の次女として生まれた督姫は当時、織田信長の死後で混乱している世の駆け引きの渦に巻き込まれ、敵対関係にあった北条氏直に嫁がされる。しかし、秀吉の小田原攻めにより、氏直は助命されるも、追放されるけれども、家康の娘婿ということでもあり、大名として復活する。ただし、急逝、督姫は池田輝政と再婚する。単純に図式化すれば、
 ?阿麻和利=氏直⇔[踏揚=督姫]⇔?鬼大城=輝政
 ということでしかない。
 もし(IF)はない、が歴史というけれども、もし、氏直が生き延びていれば、国持大名として、北条氏の復活がなったともいわれている。あるいは、もし、第一尚王統が永らえていれば鬼大城は。そして、百十踏揚、督姫は・・・。
 おもろさうしに勝連グスクは「大和の、鎌倉に、たとゑる」とある、鎌倉時代に栄えた北条氏と氏直の北条氏とは別のものであるけれども、どこかでつながっているのであろうか。
 勝連グスクを訪ねたけれども、暑かったけれども、中グスクと対峙できる一の曲輪に立つと、阿麻和利が、東アジアを〓みとれそうな気分を味わえた。そして、阿麻和利の無念の想いが、今でも、あちこちに、生々しく傷痕として、残っている、そう感じながら、址を後にした。

[参考]
 琉球大学附属図書館所蔵「伊波普猷(いは・ふゆう)文庫目録」より『おもろさうし 巻十五〜廿(仲吉朝助本)』を眺めながら、それに該当する二つの節をみている。いずれも巻十六「勝連具志川 おもろの御さうし』(天啓三年三月七日)にあって、《勝連の阿麻和利、十百歳(とひゃくさ)、ちよわれ(千年もこの勝連を治めよ)・・・》は(「三」)、《勝連わ、何(なお)にぎや、たとゑる、大和の、鎌倉に、たとゑる》は(「十八」)である。他の巻も眺めていて、ちょっと、思ったこともあるが、それは、別の機会にまた。
 
 今回はやはり、疲れた。次回の琉球留記は、少し、リゾートしてみたい。

[リゾートしてみました]
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