夜更けのブログ

 この拙ブロは途中まで、所用で出かけた博多(厳密にいえば違うが)の宿で書いている。標題通り、夜更けにである。(25日4〜6時頃)幸いなことに、東側の博多川を真下にみる部屋が割り当てられ、しだいに明けてくる空を眺めながら、目は、頭は、そして心も朦朧ながらであるけれども、中洲から「博多部」に臨み、街を望んでいる。川向こう(彼岸)に櫛田神社が位置していて、とはいえ、アレ(緑っぽい景色)が神社だな、という確信はない。だいいち、そこを訪ねたこともない。
 前回の「夜の市(いち)」を続けている。
 同神社は博多における市(いち)の中心(おへそ)のような場所でもある。祇園山笠の追い山はじめ、どんたく、おくんちなども所縁が深いという。ほかに恵方(節分)や、もちろん初詣などでも賑わいがあり、それこそ、門前「市」(いち)をなすのであろう。出発までには時間もあるので、少し出かけようとも思ったけれども、あいにくの雨空と(わたくしの)無精さでもって、思うだけで終わってしまった。(以降は、戻って、記す)
 わたくしの小さい頃もそうであったけれど、梅雨が空け、そろそろ夏休みという時分には週末になると夜市が立った。わたくしどもは夜店(よみせ)と呼んでいた。ふだんは学校帰りに通っていた狭隘な(つまらない)商店街でしかないが、この時期は帰宅してから、もう一度、行ってみようと思った。下校時にはもう、露店の用意をする活気が伝わってきて、そのまま、帰らずに居ついてしまおうかと思うのだけれども、親の小スネ(夜店用の特別な小遣い)目当てに、どうしても一度、家の敷居をまたぐ必要があった。もちろん、とんぼ返りである。只今はというと、祭事や盆踊り、花火大会などの例は別として、定期的に夜市を開催している町はあるのだろうかと、調べてみた。以前、川越の方であったと記憶しているので、検めたけれども分からなかった。「全国夜店のある街一覧」などといった都合の良い資料はないものかと、勝手なことを思っている。谷中銀座を日暮里駅方面から(千駄木に向かって)歩くと、ぶつかる通りを「よみせ通り」という。どうしてか、そういう名前になったのか聞いたこともないけれど、あるサイトに以前、この通りは藍染川が流れており、後に暗渠となり、現在の商店街の素となる夜店が立ったとある。

 三四郎が何か言おうとすると、足の前に泥濘(ぬかるみ)があった。四尺ばかりの所、土がへこんで水がぴたぴたにたまっている。そのまん中に足掛かりのためにてごろな石を置いた者がある。三四郎は石の助けをからずに、すぐに向こうへ飛んだ。そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘のまん中にある石の上へ乗せた。石のすわりがあまりよくない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。三四郎はこちら側から手を出した。
「おつかまりなさい」
「いえ大丈夫」と女は笑っている。手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに下駄(げた)をよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。
「迷える子(ストレイ・シープ)」と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸(いき)を感ずることができた。

 以上は、夏目漱石氏の『三四郎』にある美禰子(みねこ)との一瞬の逢瀬?の場面である。(青空文庫より)三四郎たちは団子坂の菊細工(人形)を観に、仲間と連れ立っていくが、途中、美禰子が、「気分が悪い」と云う。順番が逆になるが、引用を続けると、

 二人が表で並んだ時、美禰子はうつむいて右の手を額に当てた。周囲は人が渦(うず)を巻いている。三四郎は女の耳へ口を寄せた。
「どうかしましたか」
 女は人込みの中を谷中(やなか)の方へ歩きだした。三四郎もむろんいっしょに歩きだした。半町ばかり来た時、女は人の中で留まった。
「ここはどこでしょう」
「こっちへ行くと谷中の天王寺(てんのうじ)の方へ出てしまいます。帰り道とはまるで反対です」
「そう。私心持ちが悪くって……」
 三四郎は往来のまん中で助けなき苦痛を感じた。立って考えていた。
「どこか静かな所はないでしょうか」と女が聞いた。
 谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通(かよ)っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津(ねづ)へ抜ける石橋のそばである。

 この小川が藍染川、今の「よみせ通り」のようである。(北区に入ると谷田川・やたがわ通り=藍染川の別称という名に変わる)。谷中の菊細工(菊まつり)はたいそう有名だったようで、《午後はチト風が出たがますます上天気、殊には日曜と云うので団子坂近傍は花観る人が・・・》と二葉亭四迷氏による「浮雲」の主人公内海文三も出かけている。三四郎文三も日曜に出かけているとあり、浮雲には旧暦で菊月初旬の11月2日とある。今はというと三崎(さんさき)坂を上野のお山に向かった大円寺の境内で毎年10月上旬の2日間(土・日)に行なわれているそうである。お寺近くの銭湯には、何度か入ったこともあるが、菊には無趣味のわたくしである。三四郎が当日、広田先生のお宅を訪ねたのは「昼飯を済ませた」午後一時ごろか、前日、下宿に届いたはがきには「明日午後一時ごろ菊人形を見にまいりますから、広田先生の家(うち)までいらっしゃい。美禰子」とある。今のよみせ通り、当時の藍染川での逢瀬は何時ごろなのだろうか、『少し寒くなったようですから、とにかく立ちましょう。冷えると毒だ。しかし気分はもうすっかり直りましたか』と三四郎が気遣っているから、4時ごろなのであろうか・・・秋とはいえ、まだ日は落ちていないはずであるけれども、『広い畑の上には日が限って』ともある。
 これが今頃の初夏であったならば、と想うこともある。もちろん菊を見るというわけにはいかないけれども、藤とか、ツツジとか、とにかく何んでもよい、観に出かけ、もう少し、日の長い時季であったならばと、その後の三四郎と美禰子のことを想っている。次回は、「私とナースチェンカ」について想ってみる。
よみせ通りを南に根津方面へと下ると、藍染大通りという名もみられる。(このことは、また、いずれ)