31市(サーティーワン・シティ〜ズ/都市の趨勢)

 標題は1889(明治22)年、日本で初めて市制が敷かれた際の都市の数である。長くなるが、ほぼ北から順に列挙してみる。
 弘前、秋田、盛岡、仙台、山形、米沢、水戸、横浜、新潟、富山、高岡、金沢、福井、静岡、津、京都、大阪、堺、和歌山、神戸、姫路、松江、広島、赤間関(下関)、高知、福岡、久留米、佐賀、長崎、熊本、鹿児島。
 末尾に31都市の市制当時の人口と現在人口を並べてみた。それすら、あまり役立たないけれども、ついでに、石高(禄高)も載せておいた。もちろん、当時と今では版図が異なるし、石高も殿様への俸給のようなものであって、○○藩といっても、現在のような明確な枠は固まっておらず、アチコチ飛び地があった場合もあるので、○○藩=凸凹市という比較は到底できない。三番目の数値は現人口を89年により除した結果、商であり、つまり、各都市の成長具合を推察することができる。勢長(版図を拡げたという意味で)指数がもっとも高いのは横浜市の約30倍、福岡市、静岡市も高い。最下位の米沢市とは10ほど違うが、それでも、全国平均に較べれば米沢市の方が高く、いかにこの百年が都市集中の歴史であったかが分かる。意外にも東京は6倍、大坂(大阪)、京都も5倍と低いのであるけれど、すでに、「都」として大きく栄えていたという背景がある。ではと、石高の商をみると、備考として加えた大村藩長崎市)および長府藩赤間関下関市)以外は最大3倍程度である。ちなみに、わたくしの勝手な想いとして、人口から石高を引いた「差」が負である都市というのに興味がいく。31の中でいえば、米沢市水戸市金沢市福井市、津市、和歌山市佐賀市鹿児島市である。もう少し書くと、各都市が唱える将来人口の希望的数値はもしかしたら石高なのではないのかという妄想である。確かに、末尾の表では16万足らずの津市はいつのまにか大きくなって、只今時点では津(安濃津)藩の石高に迫っており、あともう一息と考えているのかもしれない。(もっとも27万石という説もあるので、すでに目標達成なのだろうか)
 日本初の市制には上記以外に6都市が指定されていたが、諸事情により、市制が遅れた。東京、名古屋、岡山、徳島、高松、松山の各都市である。詳細はこちらのサイトがたいへん参考になった。[地理のページ(地理っぽいページ)]また、佐賀は他の36都市から6週間ほど遅れて内務省より告示を受けている。その事情を佐賀市(探し)てみたけれども、どうにもならない。(-.-)ただ、鳥取市の市制にからんだサイトを見つけ、これから、佐賀の事情も少しだけ垣間見ることができる。以下、同サイト『鳥取市の成立と住民』(鳥取大学地域学部地域政策学科/永山正男教授/地域自治論)を抄訳すると、鳥取県では“鳥取”の市制実施の賛否が県および士族(否=町制派)と平民とで分かれ、紛糾のすえ、89(明治22)年9月1日内務省告示、翌1日に施行されたという。鳥取藩は32万5千石(現在人口201,727人)、家康の次女督姫を迎えたということがあって、宗主(宗家)である岡山池田藩を1万石だけ上回っていた。(岡山市の現在人口は674,605人だけど)格式が高く、士としての誇りもあったのであろう、士農工商の頭と尻尾が権益を巡っての争いと解するのは単純かもしれないけれど、それほど、町と市とでは待遇が違っていた。(そのことは、今にも通じてはいるものの、事情は異なる。また、士族と町人の対立は「福岡と博多の関係にもあったようである)士族はある意味、廃藩置県でもって立場を失っていた。藩(国許)から県に変わって、彼らを保障する手立ては実際にはなく、県に縋るしかなかったけれども、企てどおりにはいかなかったようでもある。
 士族たちの煩乱である。
その頂点は、いわゆる西南戦争であろうか、発端は「佐賀の乱」(74=明治7年)ともいわれている。葉隠をもちだすこともなく、佐賀もまた士族の町でもある。鳥取同様に、市制により、ますます自らの置き場所を狭められようとしている気配をおおいに感じていたのかもしれない。もっとも、手は打っており、政府の「移住士族取扱規則」にのっかり、これ(乱)より10年ほど前には、蝦夷地への開拓をもくろんでいたようである。『釧路市HP内』にあるサイト(名称不明)によると、佐賀藩は68(慶応4)年8月19日に《蝦夷地開拓(分領)を出願する。》とあり、71(明治4)年に佐賀藩の農工移民286名が釧路国(厚岸・浜中・釧路)に移住する。三日後の7月14日(旧暦)に廃藩置県が突然布かれた。この年といえば、焼尻・天売島(※)ではすでに水戸藩による手が入っていたけれども、こちらの方は漁業という実業の延長であり、ご苦心はあったけれども、延びる先がみえていたとも思えるが、道東はそうでもなかったのであろう。鳥取藩も84(明治17)年に移住が始まっている。釧路市には現在も「鳥取」という地名が残っているそうである。(ほかに岩見沢市などにも)市制施行というのは、以上のような痛みを経て、成り立っているものであって、また、言い過ぎかもしれないけれども、それすら、無意なことにも思えるが、どうなのであろう。
 明治の大合併→住民が徒歩で役場へ行ける範囲の合併
 昭和の大合併→住民が自転車で役場へ行ける範囲の合併
 その後の動き→車、バスや電車で役所へ行ける範囲へ通勤、通学、買い物、医療など住民の活動範囲が飛躍的に広がった
 これは、「佐賀市・諸富町・大和町・富士町・三瀬村合併協議会」サイトの中にある。それでは一体、此度の合併はジェット機に乗ってでも、役場に来なさいということなのであろうか。政府や議員、役所は「明治の水準に人口が減る」と、しきりに賜っているけれども、役場は、政府は、(明治の痛みから)どんどん遠くなっていくばかり、のようである。まぁ、別に用はないのであるから、遠くても、構わないけれども。
※焼尻・天売島については、小納(こな)正次さんの『新羽幌町史 第十三編 天売・焼尻両島史』が貴重な資料としてある。(拙ブロ「小納」で検索してください)
[31都市の初めと今](PNG使用)
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※05年10月1日以降も支離滅裂な合併が進んでいるため、市域や人口はかなり異なっている。