長崎という所は、街の置き方が良い、というようなことを、どなたかが書かれていたような気もするが、確かに、山(稲佐;いなさ)が控え、海(港)が充ち、半径1キロほどの中に”くらし”の手(道具)が詰まっていて、その置場がなんともすっきりしている。具体的に俯瞰してみると、今は終着駅となっている長崎駅はどちらかというと外れに追いやられている。もともとは、さらに南に延ばされていて、「長崎港」駅という、この街の生業である造船のある場所へと近づいていた。所用で訪ねた近くにある長崎税関の裏手にあったらしい。ここから上海に向けて、航路が拓けていた。今も北側の大波止(おおはと)から伊王島、五島などとの連絡線が行き来している。場所をさらに加えると、長崎駅の先代は只今の浦上(うらかみ)駅であった。偶然ではあるけれども、わたくしは、そこより市電(長崎電気軌道)でふたつ目の浜口町電停前近くの宿にいた。歩いて数十歩北にナガサキの爆心地があり、所用を終え、まだ明るさが残った頃合に、爛漫の桜を湛えた公園に。一段降りたところに被災当時の地層がガラス越しに見えて、食器の欠片などが灼けた土に半分埋もれている。南に戻って、中心部を眺めると、マチのヘソは浜の町アーケード街あたりであろうか。中島川をはさんで、官(役人)と民(商人)が対峙し、さらに、その縁に職人町である銅座町、船大工町、油屋町、本石灰(もとしっくい)町などが座し、新地(中華街付近)へと。冒頭の置き方が良いというのは、このことで、合理的な街づくりがなされていると同時に、山、川(海)、陸が三位一体となり、濃縮された「なり」をしている。同じ中華街をもつ横浜、神戸にも似た気配はあるけれども、長崎ほどのコンパクトさがなく、したがって、置き方がややバラけているように思える。わたくし的には、「ここ」は、まことに良い街のひとつであると思う。もっとも、江戸幕府の眼には悪い土地と見えたのであろう。鎖国をする中で、ここだけは外に開いていた。江戸からはるか離れた土地なのだから、という考えがあったのかもしれない。もちろん、それは油断であったと、過小評価だったと、のちに分かることである。しかし、ポルトガル人には良い街に感じたらしい。平戸を離れた彼らは良港である横瀬浦にいったん落ち着くが、より日本国に近い土地を求めて、福田、口之津を経て、ここ(長崎)を発見し、活動の場と決めたのであるが、その理由が海(湾)から見た長崎が故地リスボンに似ていたからだともいわれる。(自慢でもあるが)わたくしも、長崎より先にリスボンを知っていた(訪ねた)から、初めて長崎駅に降り立って、眺めた陸の姿に重ね合わせてみる想いをしたことを記憶している。今回、改めて携帯撮影をしてきたけれども、やはり、実際に眼にした感覚は写らない、なんだか、単なる町写真にしか見えないけれど、画像中央に上下、ビルとビルの間に黒っぽくみえるのが坂道である。リンク先のリスボン市街と見較べて欲しい。『リスボン市街〜旅行のクチコミサイト・フォートラベルに掲載されている画像に移動
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長崎市街
 標題は「ふご」と読む。手持ちの辞書を確認すると、あじか(簣)ともあり、さらに、ぱいすけ、とも、妙な表現であるが、「日本語史資料の連関」というサイトによると、横濱言葉のひとつで、バスケットが転訛したと解説がある。「どんたく」は、オランダ語の休日(日曜日)が訛ったというのは有名であるが、上記サイトから、ほかに、いくつか、あげてみると、「わだ=ウォーター(水)」、「ぐるばい=グッド・バイ」、「デインネル=ディナー(昼食)」、「ソップル=サパー(夕餉)」などがある。もちろん、メリケンアメリケン)もそのひとつである。畚も簣も竹などで編んだ背負い籠の類をさし、より、一般的な言い方は「もっこ」かもしれない。長崎も埋立の上に立った街である、あちこちで、もっこが使われていたに違いない。(つづく)