不参

 常々、大変、お世話及びご迷惑をかけている会社が30周年を迎えるということで、本日(07年3月22日)、わたくしも、その末席にと誘われていたけれども、都合もあって、出席することができなかった。ほとんどの所用というのは、この会社によって生まれており、そのお蔭でもって、「アッチコッチ、ホッツキ」できている。本日、その所用でもって、呑んでいる場合ではない、そういう都合もあって、「欠」とさせていただいた。今後も、よろしくお願いします。<(_ _)>
 『本日不参、明日訪問通知。』(北大北方資料室/開拓使外国人関係書簡目録収載)
 これは1879(明治12)年2月27日(?)に函館開拓使雇のオランダ人河口改良水利技師のファン・ヘント(Johan Godart Van Gendt)が誰か(あるいは、どこかの役所)に宛てた電報であろう。ヘントは前記資料室の注釈によれば、79年2月17日より函館開拓使雇いとして着任していると思われるが、括弧書きで(横浜)とあるので、その近辺あるいは東京にでも行く予定があったのであろうか、彼是(あっちこっち)、当たっているが、見当がつかない。ヘントについては、資料も少ないが、それも、彼が志半ばで、亡くなった(80年=明治13年12月25日)ことが影響しているのであろう。港湾の専門家として、現在の石狩湾新港の礎をなした人である。石狩湾新港管理組合(ようこそ石狩湾新港へ→石狩湾新港のあゆみ)のサイトでは、わずかではあるが、しかし、同港の歴史の一歩として、彼の名が刻まれているのが確認できる。ファンゲントとあるが、よりオランダ語読みに近づけようとするのならば、ファン・ヘントなのであろう。ベルギーの北部に位置する古都の名はドイツ語由来の「ゲント」の名で呼ばれることも多いが、オランダ語ではヘント、フランス語ではガンと呼ばれ、ベルギー北部はオランダ語に近いとされるフラマン語が通常用いられているので、やはり、ヘントというのが正式のようである。典型的なギルド都市国家である街の風情はその歴史はともかくも、ただただ美しいと思いながら、予想外に暑い初夏の午下、泊ったユースホステルの炊事場で、興味津々の眼を気にしながら拵えたオムスビを食みながら、運河沿いに呆然と座っていたことがある。ちなみに、ヘントと並んで記されている広井(廣井)勇は「近代土木の祖」ともいわれ、現在の小樽港を形づくっており、岡崎文吉はその師事を受け、やはり、その後、秀でた河川・港湾などの治水技術によって札幌市を北に貫く創成川(運河)を発案するなど、両者は現在もなお、その筋の人たちには、お偉い方であるようだ。『第二章 北海道の鉄道創成史第一部』というサイトにヘントについて詳しく紹介されている。(もとは、「あらうんどthe北海道全駅舎めぐり」という、本体自体もたいへん面白い!)以下、抄訳(意訳)すると、富国・殖産をめざす明治政府にとって、北端の地に埋蔵されていると分かった良質な北炭開発は降って沸いたような朗報であって、その実施のためにアメリカから招聘した南北戦争「あがり」で、鉄道敷設が不可欠であると主張した北海道開拓史上も名高いホーレス・ケプロンらと、オランダに留学し、自らも治水技術を習得し、戻ってきた榎本釜次郎(武揚)の水運是論の対立は、ケプロンが帰国したのちも続き、吉田清成が推してきた鉄道技師であるジョセフ・ユーリ・クロフォードに対して、榎本が採用したのが、のちに石狩湾の礎の一人といわれるヘントであった。しかし、ヘントは翌年のクリスマス早朝に斃れた。前述の北大北方資料室には、『ファン・ヘント氏今朝死亡、葬儀は明日(電報) / ヘーメルト(赤羽局)』と残っている。(ただ、成立年の日付については、良く分からない)へーメルトはヘント氏の遺産管理人と、他の電報にあるが、それ以上のことは、今は知る術がない。彼の死の直前である、11月20日には北海道で初めて、全国でも3番目の鉄道が開通しており、一気に鉄道推進派(アメリカ)が勢力を強めたことがうかがえる。(第二章 北海道の鉄道創成史第一部より)なお、国内鉄道開通の順番については諸説あり、初は新橋・横浜間でほぼ統一(ただし、上記北海道の鉄道創成史には別論もあり)、二番目は大阪・神戸間(京都・大津間の説もあり)と釜石鉄道というニ説がある。
 「西洋かぶれ」と榎本を評(表)したのは土方歳三であったか、確かにそうで、ヘントはオランダかぶれの榎本、クロフォードを連れてきた吉田はイギリスのちにアメリカに被れていた。その両者がつまらぬ見栄、あるいは意地でもって、諍っていただけのことかもしれない。ただ、その、つまらなさが良い、只今には、ない件である。今の、かぶれは通り一偏等(一辺倒)であり、要するにアメリカである。国や政府あるいはその取り巻きらは英語教育を重視すると、僅か数年前に採りいれた「ゆとり教育」からの脱却が、とりあえず、何故、英語なのという議論もないようである。アジアかぶれや、ブラジルかぶれ、あるいは、アフリカ、または、ヨーロッパには被れないようである。ヘントの死は、ある意味で、その後の国内輸送体系に大きく影響を与えていると考えることもできよう。鉄道(道運;運輸手段の区分としての陸運とは趣旨が異なる)か水路(水運)か、道運はモータリゼーション(自動車)へと主力を変えた現在、渋滞、騒音(振動)、事故、排気ガスなど、さまざまな問題を抱えている。一方、水運はというと、各地で見直されてはいるものの、脇役にさえなっていない。過疎という問題と運輸は近しい関係にあって、道もない、汽車も通ってくれない「疎地」においても、水は流れていることを思えば、もう少し異なった地域の展開が可能ではなかっただろうか。オランダは運河の国である。ネーデル(低い)という土地の不利を克服するうえでの策だったとしても、現在もなお国土の1割近くを占める運河の果たす役割は大きいようである。ヘント技師のことを思っていたら、そういう余計なことまでに気持ちが向かってしまった。何故、こんなことを書いているかと申せば、不参に対するお詫びであり、また、近々、うかがう長崎について、想っていた末である。断っておくけれども、以上のことと、長崎との関係は分からない。ただ、長崎⇒オランダという、単純なルートでもって、ヘント技師に至った。しいていえば、北炭の前にあったのは南炭で、今はもう灰と化した高島炭鉱及び端島軍艦島)のことである。
 昨日、『蝦夷と江戸 ケプロン日誌』(1985年;北海道新聞社)を注文した、今朝、週末には届くとのお返事をいただいた。(絶版のため、古書サイトからみつけた)