平等寺(びょうとうじ・びょうどうじ)

 今でも夏に一度かぎり、徳島県阿南市を訪れる。もう数年前か、所用でもって、二た月に一度、それを三年ほど続けていたけれども、用がなくった今も、行くことが用となっていて、一足早い阿波踊りを楽しんでいる。当初、何度か、訪れた際は、まるで観光客のように、地元の方に連れられて、各処を廻った。(それも所用ではあるけれど)お松大権現には数多の招き猫が納められており、下絵が猫模様の絵馬(絵猫)も境内に所狭しとぶら下がっている。招き猫の挙げ手には、右手と左手とがあって、右は「お金」を招き、左は「人」を呼ぶと教えていただいたのは行きつけの呑み屋で、それ以来、招きを見ると、どっちかを確認するけれども、「右手は少ないのよねぇ」と屈託なく、冗談めかす店主の仰言るとおりであるように感じていたけれども、検めてみると、やはり、そういうことを調べていらっしゃる方がいた。(招き猫の)『右手と左手の統計』(招猫倶楽部、招猫研究室、招き猫大解剖、招き猫の統計学)という猫だらけのサイトがあって、ご自身のコレクションを数えたらしい。その結果、左手が多いということである。もうひとつ、紹介すると、『招き猫は右手を挙げるか?両手を挙げてるネコはいるか?』、欲張りな両手挙げもいるらしく、また、挙げる手の高さにもふれられていて、面白い。お松大権現の文字も見られる。
 さて、旧・阿南市の北端(ただし、現在は、北隣の羽ノ浦町及び那珂川町と合併したので、北端ではなくなった)を流れる那珂川をさらに上ると、大河は渓流に近くなり、いったん、隣町(鷲敷)のロープウェイ乗り場から急峻な山道を見ながら10分程度揺られて、御参りするお寺は太龍寺(たいりゅうじ)、今でこそ、楽な道のりであるけれど、往時は、八十八か所の中でも難所のひとつであったことが容易に想像できる。同寺から見ると真南に当たる新野地区に標題の平等寺はある。前寺に比べると、ひっそりと、在る。ここで八十八か所霊場の1/4を迎えることになる。二十二番札所である。ちなみに、揃ろ目だけをあげると、
11藤井寺徳島県麻植郡鴨島町
22平等寺徳島県阿南市新野町)
33雪蹊寺高知県高知市
44大宝寺愛媛県上浮穴郡久万町
55南光寺(愛媛県今治市
66雲辺寺徳島県三好郡池田町)
77道隆寺香川県仲多度郡多度津町
88大窪寺香川県大川郡長尾町)
である。
[参考;四国八十八か所表装工房(弘法?)泰峰堂さんのサイトです]
 四国八十八か所空海弘法大師)によって開かれたといわれ、したがって、真言宗高野派のお寺さんが多く、前記、平等寺、大龍寺も同派にあるが、その他、豊山派、御室派(わたくしの大好きな仁和寺が総本山)、智山派、善通寺派などの諸派とともに、いくつか、臨済宗曹洞宗天台宗系も混じっている。わたくしも、いくつか訪ねたことがあるけれども、もちろん、物見遊山である。四国の道を車、バスで走っていると、しばしば、白衣に袈裟姿のお遍路さんが金剛杖を携えて、歩いていらっしゃるのを見かけるけれど、、老若男女問わず、ずいぶん盛んなのだなぁと感心ばかりしている。中にはバスで札所間を移動するというショートカットツアーもあるそうだが、やはり、歩いてナンボではないかと、歩くつもりはないが、そういう気もちは、わたくしの中にも少しはある。
 平等寺には、わたくしは、気がつかなかったが、『いやしのみち』(四国観光立県推進協議会)というサイトによると、びんずる(賓頭廬)があるという。同サイトの文章を引用させてもらうと、『本堂の右手に置かれている賓頭廬の真っ赤な像。十六羅漢のうちの1人で、神通力があるといわれる。「なで仏」ともいわれて、 病気の人がこの像をなでた手で自分の悪い所をさすると、その病気が治るといわれている。』とある。信州・長野の善光寺にある撫(なで)仏が有名であろうか。また、東京・巣鴨にある「とげぬき地蔵尊高岩寺)」の『洗い観音』や浅草寺の御香(の煙を手でもって掬う、攫う)なども同じ想いの延長線上(共通する念)にあるのであろう。
 びんずるというと、藤枝静男さんの『滝とビンズル』(だったか)という小品文のことが浮かぶ。遠州の山奥にある廃寺にぽつっとある羅漢さん(びんずる様)についてのお話であったように思う。あいにく手元になく(遺失したようである)、詳細を改めることができないけれども、(偉そうな物言いではあるけれど)上作・秀作として、わたくしの中にある。心当たりを探して、また読み返してみようという想いが強い。所用でもって、氏のお住まいになっていた藤枝市の近くまで月一、出かけている。4月16日が命日で、時間をとって、お墓まいりにもと思ったけれど、どこの馬(猫)の骨とも分からないわたくしが行くことは、むしろオカシナ話であるので、奥遠州の棄てられたおびんずる様に会いに行こうかとも思う。あるいは、藤(見頃らしい)を賞でに、この秋に開館するという藤枝(これは氏の名ではなく、市の名前を冠している)文学館のお姿にふれてこようか・・・、そういうことに、ひたすら、耽っている「だけ」のことである。