NOBODY,BUT,BODY(誰も住んでいない実家)

 というような言葉が響いた。ラジオを聴いていたら、あるDJがご本人の事情をお話しされており、久しぶりに実家を訪ねたら(もちろん、迎えてくれる人はいない)、荒れて、草ばかりだったと述懐していたのであるが、誰(両親以前という意味で)もいず、実家も残っていない、わたくしにはこの先、到底望めない心境あるいは体験ではあるが、しごく惹かれた。ふたつある。ひとつは、その家を見てみたいという衝動である。草茫々はともかくも、過疎地でなく、そのような光景が首都圏の東京に近い地域でさえ侵攻しているという事実に、甚だ無責任的な興味をもつ。ふたつめは、結局、その家屋はどうなるのかという心配というか、要らぬお世話である。棄てられた先はどうなるのかと、その資産価値がどうのこうのという話は横に擱いて、もし、わたくしが、そのような状況に置かれて、「実家」を訪れることがあったのなら、そこで、何を想うのか、あるいは、訪れることさえ、あるのかどうか、そういう、どうでもよいことを考えていた。ただ、どうでも良いことでもない、と思い直し、三つめを今も考えている。誰もいないが、朽ちかけているとはいえ、ボディ(家屋)は残っているという状態は、わたくしそのものをあらわしているのかなと、実際にDJさんの実家を拝見したわけではないけれども、それにごく近い条況の家屋を、あるいは、誰もいないという話および亡骸ボディを地方で、いくつか見ているので、その都度、感じていた「わたくし」について、本日、あらためて、響いた、ただ、それだけのことである。