北関東垂れ記Ver07.01.01(厩橋・来訪後記)

 拙ブロ「マリンバ」(06年12月24日付)で、グーグルアースを用い、マリンバを追って、グアテマラまで辿り着いたけれど、どういうわけか、グアテマラシティ(首都)で検索すると、姫路に至ったと書いた。そして、ちょうど良いとも記した。で、その続きから、はじめる。姫路城というのは、奇跡的に戦火を免れたそうで、ああ、なるほど、あの華花とした様相は本(もと)のままの放つ独特な色香だったのかと、何度か、姫路駅を通過する、しかも夕暮れ少し過ぎに、反射的に車窓を眺め、その存在を確かめた記憶があるなぁとも思い返した。別名は白鷺城、法隆寺の建造物らとともに国内で初めて世界遺産に登録された。また、お城と鉄道駅との距離という話を繰り返せば、両者がまことに、至近関係にある例といえる。※拙ブロ「火の国、通りすがりの記?(春日駅⇒熊本駅)」(06年2月27日付)築城は14世紀ともいわれるが、やはり羽柴秀吉による大普請(16世紀後半)がそのもとといえるのであろう。大雑把にいえば、東海道山陽道の結節点、つまり畿内と西国を分かつ要衝にあり、秀吉が姫路に目をつけたのも、それが理由であろうし、それゆえか、この城(姫路藩)は幾度も主を変え、安定しない時代が続いたらしい。城主として、何度かあらわれるのが家康の次男、秀康の流れを汲む親藩越前松平家である。最後の城主となるのは松平朝矩(とものり)で、まだ元服にも届かない年端であったらしく、要の城を任すことに対する懸念からか、前橋城へと移封され、以来、明治を迎えるまで、前橋城は越前松平家を城主として戴いた。ただし、利根川の浸食に絶えず曝されていた前橋城はその機能を果たすことが困難となり、越・松家は川越に転封し、以降、前橋藩川越藩付きの領地となり、お城も事実上、廃止された。
 以上は前橋藩(城)の末期のことである。加えて記せば、越前松平家が去ったあとの姫路城主には酒井忠恭(さかい ただずみ)が入るが、酒井氏といえば松平家を除けば、あちこちで城主として顔を出す譜代の系にあり、わたくしが育った旧小藩の城主であったこともある。忠恭から数えると8代前にあたる重忠(しげただ)が川越より厩橋に転封し、前橋藩は酒井氏の領地として9代続く。酒井氏と越前松平家厩橋(前橋)⇔姫路の交換トレードの形でもって、その後、ご一新まで、その状態が続くが、両藩とも決して平安ではなかったようである。さて、前橋である。所用を終え、数か月前に訪ねた居酒屋さんに、暮れの金曜日なので、無理かなと案じながら、それでも、以前と同じ居心地の良いカウンターに座ることができて、閉店まで、お邪魔した。翌朝は、ホテル近くのお寺を歩いてみた。それほど広くない境内の片隅に豊川稲荷があるというので、覘いてみた。明治期に寄進されたという由緒書きがわずかにその社の由来を知る術であるが、何体もの「おキツネ」さんの張り子が奉じられていて、もう何日も経てば、詣で客で賑わうのかと、ひっそりとした中にしばらく留まっていた。もちろん、「無宗教な」わたくしなので、祈ることはしないけれど、コンニチワ程度のご挨拶はかけ、一体一体、どこか異なる風貌のおキツネ様と面した。幼稚園も付設する曹洞宗系の隆興寺が所在する一帯を三河町(みかわちょう)という。想像だけでは書けば、三河の碧海あるいは幡豆あたりを出自とする酒井氏が存していたことを遺す数少ない術ともなっているのであろう。そのことと稲荷社を結びつける糸口は何もなく、上記、明治云々という但し書きにいささか失望したというか、改めて、訪ねて、人をつかまえ、色々とお聞きしたい気もしている。一説によると、酒井氏は譜代という身分にありながら、(前橋の方には大変失礼だけれども)、前橋などという僻地に満足していなかったらしく、姫路移封に際しては、画策も巡らせたともある。そのせいかどうかは分からないけれども、グルグルを確認してみると、相変わらず、グアテマラシティは姫路をさすのは酒井氏の思いがいまだ強いためなのだろうか。前橋の稲荷社を訪ねてみようと思ったのは、もちろん、わたくしの気まぐれであるけれど、グアテマラに行き着くきっかけとなったマリンバ奏者の三村さんは豊川市出身だと知った、色々なことがぐるぐると回っている。