月と停電

 何日か前か(もう、それすら憶えていない)、拙ブロの右上、カレンダー上部に「ただ今の月」画像を拝借し、掲載している。もう、満月が終わり、欠け始めていくのが、パーセント表示でも、分かる。(見れば分かることだけれど)夜というのは幼い頃、たいへん怖くて、たった数十歩の距離でも一人で歩くのが嫌であった意気地なしのわたくしであり、当然ながら、今(夏休み)の時期、さかんに行なわれていた肝試し(お墓を歩くというか、なんというか・・・)には、誘われても「忙しいから」、と、断っていた。現在とは異なり、塾通いもない時代であるので、小学生の坊主が(明日から2学期という夜以外には)忙しいわけはないのであるが、ともだちも、深く追求せずに、やさしく、わたくしの(見え透いた)言い訳を認めてくれた。
 今、夜は(さほど)怖くない。むしろ、明るいうち(白昼)の世の中の方がよほど怖く感じる。大げさに言えば、現世より来世の方が光って見える、親(ちか)しく思うのと同じような気分なのかもしれない。たとえ、それが新月の真っ暗闇でも素的に感じることさえある。こんなことを書いているきっかけというのは、先週何度か訪ねた湘南のことである。電車に揺られながら、昨年の今頃もやはり訪れており、同じような感覚でもって、書いていたことを思い出しながらいたからである。(:05年8月4日付)及び翳と影:05年8月5日付)ついでながら、一昨日の「22%(±5)〜腕時計着装率2006年夏版」についても、これは偶然ではあると思うけれど、自分の身に何かを着けることが嫌いというようなことを書いている。(時計、季計:05年8月7日付)見比べると、わずかな、もしかしたら、かけ離れた心境の違いがあるようにも思うけれど、はっきりとしたことは、わたくしには分析不可能である。あるいは、同じようなことを書くというのが、季節と相関性があるのかどうか、または、「毎年、厭きずに、同じこと書いて(想って)いるね」程度のことなのか、わたくしごとではあるのだが、そのことに、少し、好奇の心が向いている。
 さて、おかげさまで、夜あるいは闇は以前ほど怖くなくなったけれど、今でも突然の暗闇は慌てるものである。昨日(12日)、停電に見舞われた。もう、その気配は近くに聞こえる落雷の音で察していたけれども、数分、停まった。まだ、外が薄・明るいうちであったことが作用したのか、あるいは、故障中のデスクトップに代わり、孤軍奮闘のノートパソコンから放たれる微光のお陰もあって、闇というほどの雰囲気ではなかったことも影響しているのであろうが、そのとき、わたくしは、冷蔵庫に納まっている呑みかけのワイン壜を取り出して、数欠片の氷とともに、グラスに注ぎ足していた。せっかく程度良く冷えているものを台無しにしたくなかったからなど、こちらについては、その行動分析は比較的たやすいことかもしれない。または、わたくし自身が停電状態であるのだから、ワインは充電用と位置づけておけばよい。世の中の(オオヤケの)停電よりもワタクシ停電の方を優先しただけのことである。
 つまらぬことを書いているうちにも、お月様は欠けていく、実際に確かめるため、外に出てみると、素的だった。