あしをどる(阿南阿波をどりの巻)

 所用の短さに較べ、非・所用時間の長い四日間(7・24〜7・27)であった。断っておくけれども、今回は一切、画像はない。撮るつもりも、そういう気分にもならなかった。また、わたくしなどがとらえなくても、多くの、より選れた作品が世にたくさん出ているので、その必要も殊更ない。阿波踊りの醍醐味はいくつかあるのであろう、踊る阿呆、観る阿呆、いずれの阿呆にも、その人ごとの導(しるべ)のようなものがあって、それでもって、阿呆の世界へと導かれていくのであろうか。わたくし(という阿呆)の場合は、翳であった。真夏の夜の、できればお月様が輝いている頃に踊り手の翳を追う。そういう(卑しい)楽しみ方をしていた。あるいは、をんな踊りの編み笠の中を想像しながらという卑(ら)しい阿呆であったが、今回は、ふと、足が気になった。やはり、卑しいのか、をんな踊りのほうである。昨年まで、それとは気づかなかったけれども、柔らかく、幽玄で、ゆったりとした手の動きに反して、足は違った。ぞめきにあわせて、諸手同様に諸足も動くが、今回観るまでは、ただ、足をすくっと上げている程度の認識でしかなかったけれども、よくよく観察すると、上がった足をそのまま空中に置き去りにして、前後に揺らしていた。繰り返すと、上げた足は、単純に着地するのではなく、前に、後ろに、足首をひねるような形でもって、動かしており、数秒間、いずれかの足は宙にあり、その「足」所作が踊り終わるまで続く。わたくしであれば、確実に、数歩(以下)で、攣っている。
 後日(三日目)、踊り手たち(連中)と偶然に顔をあわす機会があり、足並みが揃っていて、きれいだったと、その前後運動のことを褒めた、というのか、初めて気づいたことを伝えると、(今頃、気づいたの)という顔をされ、(まだまだ、観る阿呆としての修行が足りないのだから)「来年も会いましょうね」・・・と諭されているようで、そうですね、と、観る阿呆の答える声は、ぞめきの音色はもう昨夜で終わっているのに、その音にかき消されているような、薄い存在であった。
 今年の徳島市阿波踊りは暦の巡りにも恵まれている。いつにもまして、阿呆の数が多くなるかもしれない。もちろん、阿南の踊り阿呆連中も出張っていく。