参拝と惨敗

 おじさんは8・4も湘南に。所用をさっさと切り上げると、ある方への暑中見舞い用にと、開港資料館に向かい、絵葉書を求め、ついでに、酷暑の中、水町通り(拙ブロ06年4・26付)をふらふらと。さらに、ついでに、中華街にうかがった。やはり、気になっていたので、旅館オリエンタル(拙ブロ06年4・24付)のドアを押し、中へ入ってみた。直ぐ、左横に、従業員用の仮眠室なのか、宿泊客用のラウンジなのか判別のつかない部屋があって、無造作に物が置かれていて、あれあれという感じである。人が出てこないので、さらに観察してみると、細長い建物の左側に赤いドアが印象的な(?)客室がいくつかあり、2階にも何室かありそうである。右にはフロントらしきカウンター、しばらくすると、男の人が出てきて、はいという顔をされたので、パンフレットを戴けるかと尋ねると、ありませんと答えられ、かわりに、1泊3500円、バス付き4500円であることを教えられた。いつか、泊まってみようかと、弱々しい意思をもって、お暇した。2009年、開港150年の告知が街中に目立ったハマのまちである。
 さて、突然ではあるけれど、参拝問題が騒がしい。基本的に、行く行かないは本人の勝手、というのが、わたくし的考え方であり、他人が判断することではないと思っている。自身の信念に基づく行動こそが、信仰の礎であり、それゆえに、宗(しゅう=私有)教といわれるのであろう。以前、ロシヤ旅行からの帰途、ずっと一緒だったオーストリア人と東京で呑んだ際に、渡そうとしたお守りを拒絶されたことがある。「僕には、もう神様がいるから、ふたりは持てない」というのが彼の『理由』であった。生来、無宗教のわたくしだとはいえ、お土産程度の軽い気持ちであったことが悪いのであり、大仰にいえば、彼の信念に対する冒〓行為なのであったのであろう。やはり、個々の信念(信仰、宗教)、また、それに基づく行動(参拝)を非とする権利は何人にもないはずである。ただし、信念の背中には責任という荷を背負っていることはいうまでもない。
 で、また、突然であるが、先週半ばに行なわれたボクシングのタイトルマッチの方も騒がしい。わたくしは、見ていないのだから、言う(書く)権利はないのかもしれないけれど、書きかけたので、続ける。・・・実は、このブログの書き始めは5日で、同日だったかJBC(日本ボクシングコミッション) や放映局が、以下で書く「ラウンドマスト」制という現在のボクシングにおける一般的ルールについて、喧伝しだしことを知り、書きかけのまま、どうしたものか、思案していた。ある意味、以下の文章は彼らを庇護することになるのかもしれないという覚悟のうえで、ま、そのことが本意ではないという手前勝手なルールでもって、書き続けることにした・・・。
 もう10数年か、世界のボクシング採点における原則は「疑わしきは罰する」というもので、仮に、あるラウンドの攻防で両者がワンパンチさえも出さずに、ひたすらリング上を巡回していたとしても、ジャッジメントはいずれかに10(満点)をつけ、他者には罰として9(マイナス1)とすることが当たり前となっている。今回における1Rのようにダウンがあるなど優劣が明らかな場合(一般的ルールではダウン1回でマイナス2、2回でマイナス3)は別として、曖昧なラウンドについての採点基準は、第一にクリーンヒット(相手にパンチが当たり、ダメージを与えた)、次に、ダメージはともかくも、攻勢(攻める姿勢が感じられる)なのは誰(どちら)か、で、両者攻める姿勢がない場合やよく分からな〜い場合は、防御技術が優れているなどを総合して、全体的にどっちが良かったか、といった優先順位でもって、とにかく、ラウンドごとに優劣をつけなさいということである。かつて、モハメド・アリ氏がラウンドごとに優劣をつけ、その結果を合算して勝敗を決したこと(試合)があるけれど、この方法を採った場合、極端なことをいえば、12ラウンド制として、5ラウンドでダウンを喫した惨敗必至の選手でも、残りの7ラウンドでポイントを稼げば、7:5で勝つことができるというので、この手法はその後、採用されなかったような記憶があるが、現在の基準はこれに近いシステムかもしれない。それではと、今回の試合について、後日の採点表を確認してみた。12ラウンド中4ラウンドは3人のジャッジが同じであり、この4回については異存をはさめない(ことにする)。さて、残りの8ラウンドは2人のジャッジが同じで、1人が異なる採点という状況である。例えば、前2者はA:Bを10:9とし、他一者が9:10と採点したとする。2者はAがたった一つ放ったパンチが相手(B)に当たり、効果があったと判断したのであろう、一方、一人はAの1パンチよりも、ラウンド(3分間)を始終、当たってはいないけれども、数多くパンチ(手数)を出しているので、優先順位の2番目を採ったということであろうか。体操などでもジャッジにより採点が異なるように、人の目はそれぞれ別の見方をすることは致し方ないことであり、同じラウンドを10:9と9:10とすることは、現在のルール上では大いにありうることなのである。ただ、体操は小数点第2位までだったか(?)、ボクシングはそこまで細かくないので、結果的には勝敗を左右する差を生じさせるため、今回のように騒ぎも大きくなるのであろう。さて、改めて採点表を眺めてみると、3ジャッジは8ラウンドでいずれか1人が他2者と異なる採点となっているが、1者(仮にXさん)だけは、どのラウンドも他の2者いずれかと同じ採点をしていることに気づく。言い換えれば、他の2者は自分だけ、他2者の採点と異なるラウンドをもっていることになる。このことだけで決められることではないけれど、少なくとも、Xさんは孤立することなく、常に多数(といっても2対1だけど)側に立って(採点して)おり、この試合における平均的な採点をしていたと仮定しておけば、(見ていなくても)この試合を想像することができよう。いえ、見ていないからこそ、想像できるのかもしれないけれど、現行のルール上では、接戦だったのであろう、結果的に114:113ということであるが、Xさんも、どっちつかずのラウンドがあって、その1回を逆に振り分けていたら、今頃、こんな騒ぎになっていないだろうし、拙ブロもなかった。ただ、ルール上の判定では間違いはなかったと、想像するしかない。(見ていないからね)
 この二つの件(参拝と惨敗)に関して言えば、いずれもルールを置き去りにして、議論(あるいは報道)ばかりが先行している点が気になるし、そのルールさえ、曖昧なことが、「騒ぎの上塗り」にもなっている。このような状況においては、いっそのこと靖国もボクシングもやめてしまえば?程度のジャッジメントでも良いのかもしれないけれど、それでは騒ぎがより広がろう、せめて、置いてきたルールを取りに戻って、もう一度(あらためて)騒いでみるというのでは、どうであろうか。今回は、長々と、つまらぬことを書いてしまったので、よけいに、暑苦しい日となった。61年前の今頃も、このような暑さの中の出来事であったと聞いている。三拝(無宗教で、申し訳ないけれど)