母(国+語)

 ありがたいコメントをいただいたので、本日はそれについて。母語と母国の違いは、母の数と国(地域)の数の違いからでも、想像がつく。ただし、前者(母の数)を母語とするには無理があるので、最初に身につけた言語を母語とするというのが一般的な解釈なのであろう。それでは母国というのはと考えると、母語と同じ解釈をすれば、最初に「いた」ところなのであろうか、つまり、生まれた場所をさすのであろうか。あるいは自らが、そこを母なる国と認識した場所をさすのであろうか。国という表現が不適切であるのなら、母地(所)と言い換えても良いだろう。いずれにしても、「二つ」が異なっていることは明白である。おかしいのは、双方がたまたま重なり合っている場合をもって「母国+母語=母国語」という怪しげな表現を無神経に使用している(わたくし)ということなのであろう。「英米のいわゆる母国語人」についても「個々のレベルにおいて、英米語を母語と考え、英国(その範囲がどこまでかは、また別問題であるけれど)、米国(同じ)を母国と思っている場合に限って、英米語を母国語とする人」というほどの意味で軽々に用いているので、ごめんなさい。
 また、中国語(北京語)も同様で、こちらのほうは明らかに母語とする人は前者に比べ少ないのだろう、乱暴といえば、乱暴なのであるけれど、中国語(北京語)の使用人口という意味でしかなく、これまた、そう言い訳せざるを得ない。それに加えて、わたくしは生まれた場所を母国(地・所)だと考えたこともないし、日本語を母語とも、国(家)語とも、母国語とも思ったことはないし(わたくしが、母国と母語に違いがないからという事情もあるだろうが)、A「国」で生まれたB「国」三世のCさんの母語は何で、母国はどこ、というようなことを想像したこともない。そもそも、わたくしが考えることではないことであろうし、それこそ、余計なお世話だというものであろう、と日ごろ思っているのであるから、母国語という表現自体を用いたことが、自らの考えと矛盾をしていることにも気づかされた。
 言語は支配者の道具という考え方もできよう。一国一言語とは、まさにそういうことの好からぬ極みなのであろう。あるいは、「〜語」とつく以上は上記の言語=支配のための道具論と考えれば、言語と国家語の間に、それほどの違いを見出せないとするのは、やはり、乱暴なのだろうか。言語が言語として発展(伝播)していく過程には必ず、その他の少数言語の駆逐があると考えれば、両者(言語と国家語)には違いこそあれ、少なかれ、延長線上にあるともいえる。現時点で消滅しており、誰も母語とすることのできない言語の多くは、今ある何がしかの言語により、生命を失ったのだとしたら、言語と国家語についてを考えることは、現在の国家・地域の枠組みだけでもって、語れない部分があまりにも多すぎないだろうか。今は被支配側の言語なのかもしれないけれど、古くは支配者側だったかもしれない、そういうことを、つらつらと語る覚悟があれば良いのだろうけれど、残念ながら、わたくしには、ない。また、そのこと自体、何の意味があるのか、わたくしには、よく分からない。ただし、上にも書いたが、母国語というのはもう用いてはいけないということがはっきりした思いである。
 さて、もし、支配から逃れている言語が存在しているのであれば、隠語、ギャル語の類はともかくも、「ことばによらない言語」のほうがより秀逸であろうし、自然なのであろう。ある人からの請け売りだけれど、著名な音楽家(芸術家)であるジョンケージの『4分33秒』は標題の時間、演奏者は演壇で沈黙を守り通すという作品であるという。付け焼刃的な解釈をすれば、まさに、そのこと(言語と国家語について)を暗示しているようにも思える。もう、拙ブロでも何度も書いているけれど、言葉は難しい、あらためて、そう思うしかないし、そのとおりなのであろう。
 ま、そうは書いたものの、内容はともかくも拙文を人様に曝け出している以上は、もう少し、「言葉」遣いに留意するのは当然のことであると再認識させられた。ただし、浅くて、甘くて、カル〜くないというのは、お察しのとおりの浅薄なわたくしゆえに、どうにも、いたし方のないことであるのだけれど。
 コメントありがとうございます。