世界的言語(html lang="ja")

 走り、あるいは歩き程度なのかもしれないけれど、梅雨っぽい。そういう息苦しい中、地下鉄に乗っていて、眺めていた広告にて「英語を習得すれば、10億人とお話しできる」というのをみかけた。正確な数字は調べていないが、英米のいわゆる母国語人に加え、その他、英(米)語使用人口がその程度いるのであろう。もちろん、それを上回るのが中国語(北京語)なのだろう。いずれも、多少の違い(国や地域による慣用や、いわゆる方言の類など)はあるのだろうが、まぁ、両者が世界でもっとも使われている言語といってよいのであろう。対して、日本語というのは世界でも稀な1国1言語の典型のようなものであるが、実際には東西南北、古今で、その中身は全く異なっている。北の人と南の人がそれぞれの「お国ことば」でもって、お話したら、まず、会話が成り立たないであろう。以前、放映されていたほうのシルクロードの中での5人インタビュー。ソグド語かソグド古語か失念してしまったが、そこから取材者である日本のTV局ディレクターに伝わるまで3人の通訳を介したという現場が流れていたが、それ自体で、もうすでに、凄まじいドキュメンタリーを見たような感じになったことを憶えている。手元にないが、その後、同番組をもとにした刊行物でも紹介されていたと思うが、いかに特異な(消滅寸前)言語といい、一会話を成立させるために数分を必要とする様を目撃した時の衝撃は今でも忘れられない。ただし、現在においても、それに近い状況はあり、沖縄の久高島から戻る際、偶然聞いたのは、A→B→Cさんという会話。Bさんが通訳である。これに、もし、わたくしが加われば、Cさんも通訳となる。那覇に戻って、山羊料理屋さんの常連の方々にお聞きすると、首里あたりでも通り(道路)一本で言葉が異なるから、と、教わった。言葉というのは共通であれば都合はよいのであろうが、趣きという面からいえば、必ずしも良いこととは言えないのであろう。気候や風土が違えば、人も、その顔(表情)、心が異なるようなことが、言葉にも十分あたるのであろう。時代により、言葉も変わっていくが、使う言葉によって人も変わるということもあろう。やはり、言葉はたくさんあったほうが良い、楽しい、と思う。
 本日は言葉ということについて、ぼうっと考えていたけれど、そのきっかけは、拙ブログならびにHPの改編作業の折に、悩まされているコンピューター言語である。今、ネット人口は6億ともいわれているそうであるけれど、末端の表現言語は異なっていても、根となるコンピューター用言語の利用人口というのはどうなのであろうか。わたくしにはさっぱりであるが、その世界的な言語のおかげでもって、このようにブログが内容はともかくも、あらわすことができるのだから、間接的な利用をも含めると、相当数になるのだろう。ただし、それらを言語といってよいのか、どうか。あるいは通訳とすべきなのか、これについては、まだよく分かっていない。もし、コンピューター言語がコンピューターとわたくしとの通訳であるのなら、せめて、あと二人ほど、通訳をはさんでほしい、そういう気もちでいっぱいである。(嘆)html lang="ja道"