しのぶもぢずり(信夫文知摺)

 先週末に、所用でもって上野辺りを訪ねた。ふと、気になって、不忍池をのぞいてみた。大型連休終盤とあり、池周りはまるで猛暑の海水浴場のような人だかりが過ぎ行く夏を惜しんでいる風でもあり、事実、時折吹く風が冷たく感じられたが、お日和にも恵まれたせいか五月の緑を堪能している様子があちこちにあった。骨董市も出ており、季節は早いけれど、縁日の気分にもなった。忍ばずの池とは、実際にはどうかは別としても、聞く者に妄想を供してくれる地名だなと思っていたけれど、司馬遼太郎氏の《街道をゆく》シリーズをずらずらと読んでいて、神戸散歩の中に、以下のような文があり、その辞(ことば)を思い出し、ふと寄ってみたわけである。
 『日本では、東京と京都の地名がいい。どちらも知識人が多く住んでいたために、符牒めいた地名がすくなく、歌や俳句になじみやすい。』(布引の水より)
 もちろん、ご自身が「大阪人」であるという点をいかほどか割り引かなければいけないのだろうけれど、そのように日本の新旧首都である二都のことを褒めていらっしゃる。確かに(と、わたくしが言うこともないが)京橋の名の由来においても、西(大坂)と東(江戸)では、名づけ方が異なっていたようである。けふ橋(拙ブロ06年4・28付)。
 そもそも上野を、忍が岡と呼び、その返歌(句)として、不忍(しのばず)とされたと考えれば、歌や俳句になろう。
 『春日野の 若紫の 摺り衣 しのぶの乱れ 限り知られず
(春日野の若紫で色を摺り付けた摺衣の「しのぶもぢずり」模様ではないが、春日の里で垣間見たたおやかな女を恋い忍ぶ心の乱れは、限りを知らない)在原業平の『伊勢物語』の最初の段にある歌である。そのもととなるのは、小倉百人一首にも撰ばれている河原左大臣源融(みなもとのとおる)が虎女との悲恋を詠ったという
 『みちのくの 忍もぢずり誰ゆえに みだれそめにし われならなくに』…陸奥で織られる「しのぶもじずり」の摺り衣の模様のように、乱れる私の心。いったい誰のせいでしょう。私のせいではないのに(あなたのせいですよ)/古今集という歌だそうである。この二つの句に共通している「忍ぶもぢ(じ)ずり(文知摺)」で有名なのが福島県の信夫山(しのぶやま)である。[二句の出典はいずれも関西大学電子展示室「伊勢物語(慶長刊版)」]
 もう、今では、そういうことも滅多にないのであろうが、上野を忍が岡といい、その端の池を不忍池といい、(悲恋や恋心を)偲ぶには、心地のよい場所なのかもしれない。
 後年、松尾芭蕉も信夫山を訪れており、
 『早苗とる 手もとや昔 しのぶずり』と詠んでいる。
(早苗をとっている早乙女たちの手元を見ていると、むかし、しのぶ摺りをした手つきもおなじようだったのかと偲ばれることだ。)
 もぢ(文知)は「綟」とあらわす。