洒落柿(しゃれかき)

 昨日の横道。去来のことで思い出したことを。学生時代、何度か行っていた京都。落柿舎にも行った。その際の京旅では一番に向かおうと思ったはずで、しかも、確かにそのとおりにしたのであるが、その理由がおもい出せない。ただ、はっきりしているのは、この庵の持ち主を松尾芭蕉だと思いこんでいたことである。芭蕉の『嵯峨日記』は『奥の細道』から2年後の1691(元禄4)年4月18日にここ落柿舎を訪れて、書かれたものであるが、そのことと、わたくしの勘違いが関係しているのかどうかも記憶にない。芭蕉はここで本日5月5日まで過ごしたいう。(ただし、旧暦であるけれど)
 
 『柿ぬしや梢はちかきあらし山』

 落柿舎の由来は一般的な解釈にしたがえば、ずいぶんと世知辛い句として扱われているなぁと思うけれど、彼(去来)の筆による『落柿舎ノ記』の中で庵にあるよく実った柿の木を買い取ろうという人が現われて、代金を受け取ったが、その夜にひどい風でもって実が落ちたため、取引が成立しなかったという「事件」から、名づけられたといい、上句の意味は「柿の持ち主(去来)は、枝の先(梢)の向こうに見えるほど近くにある嵐山から吹く風でもって、実が落ちてしまったので、せっかくの儲けが嵐山の所為で台無しになったと思っている」とされている。なんだか、落語の『ちはやふる』(拙ブロ06年4/13付)のような気がしないでもないけれど、もし、その解のとおりであるとしたら、燕の句といい、これといい、去来という人は直截的な詠み方をされたのだなぁ、と、たった二句だけでもって断定するわけではないけれど、父玄升の本草学的資質を受け継いでいたのであろうか、いたって自然科学の眼(観察眼)を有している人のようだったのであろう。去来が芭蕉を知るきっかけとなったのは榎下其角(えのもと きかく、のちに宝井を名乗る)との出会いによるものであるが、彼もまた医者の息子であったというのは、単なる偶然とも思えない。これが、医句同音ということなのであろうか。

※前のテンプレートはいまだ横道にそれたままで、戻ってこないので、現テンをこまごまといじっている。本日は題字(雑に)をベロネーゼグリーンからボトルグリーンに変えてみたが、暗(緑色)どころから暗黒色にしか見えない。明日は、去来に因んで、洒落柿色(#FF8566)にでもしてみようか。