出島・入島

 扇状地が横道に進んで、20年ほど前か、所用で長崎に出向き、翌朝、出発前に、ホテルから近い『出島』址という場所に出かけたことを思い出した。ここも扇型であったという、まことにか細いつながりでしかない道草である。記憶では、何歩か進んで、戻って、それで全てという印象があった。改めて調べてみると、もともと、狭い地域であったらしい。東京ドーム1/2個分といわれても想像がつきかねるけれど、幅190メートル×奥行70メートルほどで、面積は1万3千?程度となるので、フィギュアスケートの荒川さん、安藤さん、浅田さん(皆さん「あ」だ)など数名が一緒に演技できる程度(誰を観るか迷うけれども)、あるいは、道路も庭もないことになるが、持ち家戸建て150戸分(平均建築面積88?、03年住宅・土地統計調査総務省)程度である。その狭い中に常時居留していたのは10数〜20名というから、さして狭くはないのかもしれないけれど、教科書やらなんやらで露出度が高く、過大な想像をしていたためであろう、実際には案外小さいなぁという印象になってしまうのかもしれない。わたくしの経験でいえば、他に小便小僧、トレビの泉、札幌時計台などがそれにあたり、人魚姫も人から聞いた範囲ではそれに該当するらしい。今まで予想どおりであったと実感したのは宇佐の東光寺五百羅漢さん(拙ブロ:富の国05年5月15日付)だけで、羅漢さんたちにはむしろ、想像を超える大きさを感じた。といって、過大な想像をしていなかったということにはならない、むしろ、超をつけてもよいほど、長い間待った末の逢瀬であるのだから、想像(期待)の大きさは並ではない。にもかかわらず大きかった。
 さて、出島という名はこっち(本土側)からみた(地形をあらわす)「まま」の言い方であるが、実際にはこちらから出ることはなく、もっぱら、アッチ(ポルトガル、のちにオランダ)から入ってくるわけであるから、機能的にあらわせば『入島』と称したほうが的確であろう。ただし、出ようと思った人間もおそらく少なくなかったに違いない。横浜港、もとのフレンチ波止場(現在は山下公園の下)から密航しようとした者も少なくなかったらしいが、コッチの方はすぐそこに西洋があるので、その分警備も厳しかったのであろうが、やはりいたらしい。彼(女)らにとっては、地形の状態だけではなく、実質(機能)的にも出(ていく)島に映ったのであろう。
 この出島から年1回(のちに2年ごと、あるいはそれ以上の間が空くようになった)、商館長(カピタン)以下、蘭人たちの江戸詣で(将軍への拝謁)が行なわれた。その際、宿舎となったのが、江戸日本橋本石町の薬種問屋「長崎屋」である。そのことが、おそらく、長崎屋に、日本で初めてのホテル(実質的には旅館であるが)という称号が冠されている根拠なのであろう。手元にないが、運輸省(現・国土交通省)発行による『日本ホテル略史』にはそう(日本初のホテル)書かれているそうである。18世紀中〜末には前野良沢杉田玄白らが蘭学を会得しようと足繁く通っていたことは菊池寛著の『蘭学事始』(青空文庫)などにも描かれていることは、拙ブロ「横浜、オリエンタル・ホテル」(06年4/22付)でもふれたが、カピタンらの江戸参府が始まったのは17世紀半ばからのことらしい。その頃より、すでに、長崎屋が逗留先であり、ヨーゼフ・クライナー氏の『江戸・東京の中のドイツ』では1649(慶安2)年以降には、参府団の中に商館付き蘭医たちも随行するようになったと書かれている。ハンス・ユリアーン・ハンコもその一人で、現在のポーランドに生まれた優秀な外科医として、1655(明暦1)年、出島に着任、翌年に江戸参府に随伴している。当時は日蘭の関係も緩やかな(のんびりとした)もので、ハンコらも、どこそこの殿様が患っているので、診てほしい、治してほしいといった、便利屋的な存在として扱われており、日本において本格的な蘭学事始にいたるまでには、なお、1世紀あまりを必要としていたが、長崎在住の優れた本草(ほんぞう)学者である向井玄升(むかい げんしょう)はハンコをしばしば訪ねて、商館(出島)に赴いている。その流れの源がのちに貝原益軒(玄升の門下)やひいては前野らによる解体新書へと注がれていったのであろうか。ハンコについては、この項のほとんどを参照としている『出島蘭館医ハンス・ユリアーン・ハンコについて』(ヴォルフガング・ミヒェル氏)に詳しい。
 
 『あそぶともゆくともしらぬ燕かな』(曠野=あらの集)

 松尾芭蕉の弟子、去来による句である。燕は遊んでいるのでも、単に飛んでいるのでもない、産まれたばかりの子のために餌を獲っているんだよ、という意味らしい。玄升の次男として生まれた去来は、医者をめざしていたが、いつのまにか、植物観察が嵩じて、旅に魅せられてしまったのであろうか。芭蕉もそうであったかもしれない、あるいは菅江真澄も。いわゆる民俗学博物学というのも、存外、本草学の流れを汲んでおり、少しだけ横にそれてしまったのだろうか。初夏、外に出てみて、路傍の草でも眺めてみよう、か。

 ※テンプレートをいろいろ横道していたら、もとの道に戻ることができない状態に。したがって、他の方のを借用して、ちょっと、変えてみた。