橋(別の)および派大岡川など

 吉田橋では身が落ちないように気をつけながら、下の高速道路を眺めていた。もともとあったけれども、憐れにも道路の下に埋まってしまったという「派大岡川」(堀川、堀切川とも呼ばれる)、大岡川から派(分かれ出たもの)とある限りは、大岡川が上流で、分かれた先が合流する中村川方向に潮が流れていたのであろうか。あるいは、やはり、大岡川沿い(あるいは向こう岸)が横浜(神奈川)の中心であったということだけなのかもしれない。『横濱明細之全圖』(1873=明治6年)には関内と関外を派(分)かつ派大岡川がほぼ真一文字に描かれており、吉田橋を除くと、中村川との角地に造営された製鉄所とのみに橋が架っている。旧久良岐郡(くらきぐん)吉浜町、現在の石川町駅付近である。久良岐(倉城)は現在の横浜市の南部をほぼ範囲としていたようで、もとは倉樔(くらき)と記し、久良ともいわれていた。倉(久良)とは4〜5世紀における支配者、あるいは、その後の乙巳の変大化の改新)以降、律令制度へと進む朝廷に献上された直轄地である屯倉(みやけ)のあった場所であり、三(御)宅すなわち住処と解されることもあり、また、一般的には民からの徴税による穀物の保管庫(くら)とされている。久良岐郡はこの倉を中心に栄えた地域(城)であることが地名の起こりともいわれている。もっとも、当時(大雑把にいえば4〜7世紀)のことは、いまだに解っていないことが殆どであろうから、いずれにおいても、確証はない。
 さて、明治6年当時の中村川を下ると、上流から西之橋、前田橋そして最下流谷戸橋があるが、当時は水町通りに据えられていたけれど、現在の谷戸橋は本町通りに架け替えられている。また、より下流には新たに山下橋が存在している。なお、中村橋をさらに上り、掘割川と交差する付近に久良岐橋の名がみられる(現在の地図上で)。この辺りに屯倉があったのだろうか。4〜7世紀ごろの中区一帯はすべて海の中だったらしい(少し心もとないけれど、横浜市資料による港湾の変遷)ので、ちょうど、その際(きわ)にある久良岐橋辺りだったのかもしれない。地図(現在)を見ると、対岸は中村(町)、それにふさわしいのかもしれない。ちなみに鳴門秘帖宮本武蔵を著した吉川英治氏はこの辺りで生まれている。確かに中区というのは大岡川中村川の三角州に乗っかかった危うい土地でもあり、自然の力でもって、時間を費やして、どっしりとした土台ができるのを待たずに埋め立てを進めてきたという面もあるだろう、横濱明細之全圖に描かれている派大岡川の向こう側(関外)には先の製鉄所のほかは陸とも海ともつかぬ一面灰色でもって色づけされており、草木も生えていない沼沢が広がっている。
 本来、橋というのは武器、兵器の一種ではないかとも思う。もともと隔離された島という世界に住むものにとっては、それ(島であること)自体が要塞の役目を十分担っており、外部の者(敵)に対しては海からの侵略(侵攻)に神経を研ぎすましておけばよいことである(これだけでも大変なことではある)が、橋という存在は水陸両面からの脅威に備えなければならない。城郭というのはその典型で、小高いあるいは急峻な丘の上に立つ山城はともかくも、平城においては、常に外敵の侵入に脅えているから、廻りを濠で堅めるとともに、最小限の門でもって、できれば蟻の穴程度の出入りに留めたいところである。したがって、城廻りに無造作に橋を築くことほど莫迦げた所作はない。一方、侵略しようとする者にとっては橋ほど助けになるものはないであろう。中和洋問わず、城あるいは砦を陥(おと)そうとする場面に梯子をもって先鋒を進む徒手がいるが、あれは、上(要塞の壁に沿って)に架けるか、横(お濠)に渡すかの違いはあるものの、いかに城(砦)が橋に弱いかを示しているようにも思える。関内という所もお城となんら変わらない立地条件にあり、橋にめっぽう弱い欠点を有していたため、政府は極力、蟻の穴に近い状態を維持しようと謀っていたのかもしれない。ただし、この場合は城内(関内)に外敵がいるという、ややこしい関係にあるけれど。念のために、横濱明細之全圖から22年経った『新撰横濱全圖』(1895=明治28年)を眺めると、「吉田橋」と「製鉄所橋」の間を新たに3本が架設されており、関内とその外の緊張感が和らいだ、あるいは、外敵の侵略がより進んだことがよく分かる。この橋がもつ武器性という色あいが現在においても政治やお役所のいわゆる「公」という業務の中で未だに見えない、しかし大きな脅威あるいは成果(侵略する側)として存在しているのだろう、しばしば、そして、絶えることなしに、橋梁をめぐるコトが起きるのはそういうことなのだろうとも考えられよう。
 喬(きょう)というのは辞書によると「そび(聳)えて、高い」という意味があって、木製であれば橋、吉田橋のように金属製であれば「金に喬」となるのであろう。いずれにしても、内と外を断つためなのであろう。部首(偏)が人に変わると僑となるのであろうか、ただし、横浜中華街には橋はなく、いつでも誰でも、受け容れてくれる寛容さと(少しだけではあるけれど)商売っ気がある。
 本日は、初夏の香りに乗って、別の橋について書こうと想っていたのだけれども、傍にある古地図が気になって、引き続き、眺めながら、妄想を続けていた。別橋は別項でいずれ、書きたいと思う。