水町通り(横浜・関内・居留地)

 司馬遼太郎氏の考えていらっしゃる馬車道は、おそらく、現在呼ばれるところの固有名詞としての『馬車道』のみを指しているのではないのではなかろうか・・・、そういう立場でもって、イザベラ・バード女史が英国領事館からオリエンタル・ホテルまでの光景を記述した一節について妄想を続けてみることにした。旧神奈川奉行所(または外国奉行所)のあった紅葉ケ丘付近(現在は県立図書館などがある)はその名のとおり、周辺に比べ小高い地形となっており、開港当時であれば、港が見渡せ、奉行所を据えるには適した場所であっただろうが、今は無粋な高層建築がその視野を妨げている。東西上屋倉庫を撤去するという記事の中にあった横浜市のコメントがふるっている、「(撤去すれば)、官庁街のある日本大通り付近から海が見渡せる」(asahi.com06・4・21)・・・未だに奉行所のつもりなのであろうか。余談であるが初代の外国奉行に命ぜられた一人でもある水野筑後守忠徳はあの咸臨丸に揺られて、小笠原諸島に出向いており、その際、父・母・兄・弟・姉・妹・姪などの名づけをしたそうである。県立図書館での所用を済ませ、ここにもあるオリエンタルホテル(オリエントホテル横濱開洋亭)を眺めつつ、この丘を下って、桜木町駅際から、ほぼ鉄道高架に沿って歩けば、吉田橋にたどり着く。ここが開港(国)時代、内と外を分かつ点、関門であり、内、すなわち港および居留地側が関内といわれていた。『馬車道』というのは関内側を本町通り(国道133号)に至るまでの数百メートルの通りをそう呼ぶ。いわば固有の名称であるが、その意味するところは、今でいう車歩分離の道路であり、バード女史も人力車に乗り、車道から観察した(予想外に)よくできている歩道を記述している。開港が実現し、居留地を確保したものの、江戸とは遠く、吉田橋界隈には江戸行きの乗合馬車なども繁栄したが、それも鉄道の開通により、次第に廃れていったようである。改めて『横濱明細之全圖』(1873=明治6年=バード女史来横の5年前)を眺めてみると、『ステンシヤウ』の文字が現在の桜木町駅辺り(当時の横濱驛、停車場)に確認できるが、この地圖が発行される前年には新橋〜横浜間にて日本における最初の鉄道事業が開始されている。驛とは大岡川をはさむ形でもって、東南側に「関内」が拡がっているが、ひときわ大きく、広く描かれているスジが『馬車道』である。同図には凡例が施されていないが、ピンクに彩られている部分が外国人居留地あるいは領事館など治外法権部分(なぜかステンシヤウも桃色)、それ以外は黄色で示されており、その多くは日本人町であった。『馬車道』は後者に所在しており、吉田橋(関内・外を分かつ点)から港に向かって、佛役舘(当時のフランス領事館)、今でいえば万国橋の袂まで延びている。当時はまだ新港埠頭は存在せず、遠慮がちに盲腸程度の小頭がある程度で、当然、波止場としての機能は果たしていないようにみえる。その脇にある領事館は港に面した位置にあるが、到底、船が横づけできるとは思えない。現在からすれば、それすら埠頭とは言い難いけれども、より東側にある「東西波止(戸)場」、現在の大桟橋に依存せざるを得なかったようである。その東波止場近くにイギリス領事館がある。(現在の開港資料館)バード女史はここに立ち寄り、その後、人力車でもってホテルに向かっている。もう一度、繰り返すと、
 『・・・街路は狭いが、しっかりと舗装されており、よくできている歩道には縁石、溝がついている。ガス灯と外国商店がずらっと立ち並ぶ大通りを過ぎて、この静かなホテルにやってきた。この宿は、同じ船の乗客たちのあの鼻声のおしゃべりから逃れるため、サー・ワイヴィル・トムソンの推薦してくれたものである。あの人たちはみな、海岸通りの大旅館に行った。』
 どうやら、女史はホテルに至るまで、狭いがよく整った街路および大通りを通って(過ぎて)いるようである。再び、『横濱明細之全圖』に眼を移すと、領事館は波止場前、現在の開港資料館付近にある、ここから、居留地84番のホテルへ向かおうとすると、少なくとも、二本の道を利用する必要があることが分かる。上図は手書きでもって描かれているため、実際の道路幅とはいくぶん異なるのだろうが、大きな(広い)通りは『馬車道』を含め、数筋確認でき、列挙すると、入舟町通り(現在の入船通りとは異なるようである)、本町通り、海岸通り(バンド=Bund)、弁天通り、通り名は記載されていないが、現在でいう、みなと大通り、日本大通り、大桟橋通りに当たる道も波止場から延びている。この図は橋本玉蘭斎という絵師によるもので、五雲亭貞秀という名で浮世絵師としても活躍していた人物だそうで、下総国布佐というから現在の千葉県我孫子市に生まれ、当時、鳥瞰図の第一人者といわれていたようである。「酔芙蓉」というサイトにある図(横浜開港見聞誌)は1862(文久2)年とあるから、上記の横濱明細之全圖よりも11年前の横浜を描いており、まだ、『馬車道』(67=慶応3年に造作された)が存在していないが、集積して停泊する帆船および整然と区劃された関内の様子が開港(59年)直後の緊張感、活気を感じさせるとともに、対比して、関外の光景がなんとも、のどかである。(もっとも、この辺り=関外には何もなかった)
 さて、居留地側には先の本町通りおよび海岸通りが日本人町からつっとそのまま延びてきており(横濱明細之全圖)、街区は現在とほぼ同じ容(かたち)なので分かりやすい。英国領事館は居留地に面した一頭地にあり、ここからホテルに向かうには現在の大桟橋通りを経て、本町通りを直進すれば間近である。先の「ガス灯と外国商店がずらっと立ち並ぶ大通り」とはそのこと(本町通り)をさすのであろう。当時の本町通りを訪ねてみよう。『古絵葉書散歩』は往時の横浜、東京、京阪神を着色絵葉書によって著したサイトであり、その中にある本町通り、繁華さの点においては、『馬車道』に劣って見えるものの、広い通りであることは想像できよう。残念ながら、ガス灯は確認できないが、もう一枚の着色写真天主堂付近居留地80番=現在の山下町80)には左手前にシャンとした灯がいらっしゃる。この写真は94年頃撮影とあるから、中央あたりにある天主堂の4区劃先には、もうオリエンタル・ホテルはないのであろうが、バード女史はこれに近い風景を見ながら、ホテルに到着したのであろう。奥のほうに緑で色付けされている小高い森が山手の丘であろうか。通りには女史も乗っていた人力車が数台描かれている。94年の写真は現在の中華街東門辺りから撮られているのだろうか、同写真の注意書きにはこの西側(写真に写っていない手前、つまり撮影者の背後にあたる)に外国商店がずらっと立ち並んでいたらしい。したがって、女史はこの地点より西側(より繁華な地点)から本町通りに進入したのではないかという想像がつく。古地図を広げて、にらんでいると、領事館の前から居留地に向かって、ちょうど港側の海岸通りとより陸側の本町通りにはさまれる格好で「狭い」通りが中村川までつながっている。この通りこそ、女史が最初に通った「街路は狭いが、しっかりと舗装されており、よくできている歩道には縁石、溝がついている」道ではないかと思い、現在の地図に移って、通りの名を確認し、それが「水町通り」(古絵葉書散歩より)であると想像してみた。WaterStreetを水町通りとした、素的な名前である。絵葉書をみると、縁石らしきものも確認できる、溝はというと、そこまでは見分けられないが、全体に、よくできている歩道(写真左側)と評すことができるであろう。本町通りと異なり、ゆっくりとした時間を感じさせる。女史を乗せた車夫は、行き先を告げられると、ちょっと気を利かせたつもりなのであろう、今であれば、芝辺りのホテルへ行こうと、銀座の裏街辺りで車を拾って、運転手さんが大通りを避けてくれるようなものであろうか、おそらく、領事館に近い西側の本町通りは商用などで行き交いする馬車や人力車で混んでいるだろうからと、比較的空いている水町通りに進み、途中、これはもう妄想に頼るしかないけれど、居留地26と27辺り(現在でいえば、元のザヨコ=ザ・ホテル・ヨコハマを斜めにみながら)を右折し、本町通りに入ったのだろうか、あるいは、もうひとつ手前(県民ホール角)かもしれないけれど、あの鼻声のおしゃべりたちが泊まっている海岸通りの大旅館へと向かう辺りは水町通りもそこそこ混んでいる可能性もあるので、その先(今のニューグランド角)はないだろうなぁと、勝手に想像している。天主堂を過ぎると、大通りも存外静かとなり、トムソン氏の薦めてくれたホテルは、そのゆったりとした時間と空気の中にひっそりと建っていた。(のであろう)
 「馬車道であろうか」を固有名詞としての『馬車道』と置き換えると、以上の想像はすべて無に帰す、また、オリエンタル・ホテルの所在についても考え直さなければいけないのであろう。ただ、司馬氏が思っていたであろう一般(普通)名詞としての馬車道と考えれば、以上の想像も妄想程度として許されるだろう。おそらく、本町通りも馬車道だったのであろう、あるいは、現在の固有名称としての『馬車道』以外に、馬車が通ることのできる、人馬分離の道、すなわち、一般名称としての馬車道が余所にあっても不思議はないだろうということであろう。中区の資料の中に、そのことを示唆する文章があった。「なか区歴史の散歩道 その二十八 鉄の橋と乗合馬車」(横浜開港資料館・調査研究員/西川武臣氏による)一部を引用させていただくと、
乗合馬車が、京浜間で利用され始めたのは、明治元年11月(1869年1月)のことで、 横浜と東海道を結ぶ「馬車道」が新設されてからのことであった。この道は、海岸部に造成され、平坦な道であったため、多くの乗合馬車が「馬車道」を利用した。
 現在の「馬車道」とは別の道であるが、こうした道が交通手段の近代化に大きな役割を果たした。また、「馬車道」の起点付近にあった吉田橋のたもとには、馬車の待合所が置かれていた。』具体的な場所は確定できないが、より海岸に近い箇所に別の馬車道が、すなわち一般名称としての馬車道が存在していたようである。それが本町通りかどうかは確定できないものの、馬車が通るのことのできる広い道であったことは絵葉書や写真より、うかがい知れよう。いつから、『馬車道』が固有となったのか、よく分からないけれど、開港資料館で買い求めた他方の地図『新撰横濱全圖』(1895=明治28)年を見ると、馬車道とあるので、もう固有化していたのかもしれない、遡って、『横濱明細之全圖』(1873=明治6年)においては、《通馬車道》と標されているのが気になる。馬車道通りであるのなら、それはそれとして、本町通り()などと同様で、のちに通りが取れたと理解することができるが、語順が逆さまに、わざわざ、されている気もする。手持ちの辞書で「通り」を調べると、みち、街路、通路といった解釈から始まって、いくつか目に《通用すること=例として、彼は芸名の方が世間に通りが良い》という記述がみられる。これを適用すれば、『馬車道』にも何か別に正式の名称(例えば、吉田橋通りであるとか)があったのだろうが、人々には、それよりも「馬車道」の方が《とお(通)り》が良かったことから、通馬車道といわれ、ついには、固有名詞としての『馬車道』となったのだろうか。当然ながら、これもまた、妄想の世界でしか通らない理屈であろう。(了)