ベンチャー嫌い、あるいは苦手

 だらだらと、函館・湯の川温泉で想ったことの延長線を見ている。(拙ブロ「かんかん(函館)06年2月4日付)イザベラ・バード女史は1878(明治11)年夏、函館に渡っている。『日本奥地紀行』はその時の日記プラス宛てのない書簡集のような形式でもって書かれたもの(実際には妹へニーに宛てている)で、第一信の5月21日横浜、オリエンタル・ホテルで始まる。これに先立つ(むしろ出版の際に書かれたものであろうから、それにあと立つか?)「はしがき」の終盤に、女史が幾人かの方に対する謝辞を述べる部分がある。紹介すると、サー・ハリー・S・パークス(バス勲爵士)、イギリス公使館のサトウ氏、海軍兵学校チェンバレン氏などの名がある。パークスは1865年から18年間、駐日公使として、ある意味日本の近代化に影響を及ぼした人物でもあり、母国での勲位もかなり高いようである。しかし、彼自身は列強英国の示威行為が目だって、当時の明治新政府にも評判はあまりよくなかったらしい。司馬遼太郎氏が酷評しているのだから、そのとおりなのであろう。むしろ、その下に配属されていたサトウの方に女史も感謝しているのかもしれない。アーネスト・サトウは当時の日本を一外交官としてみた書を何著か出されている。もちろん、わたくしは未読であり、実は、先日もよほど購入しようかと思ったけれど、今は、それどころではない(女史の著も途中だし)と手にはしたものの、棚に戻してきた。今でも高い評価を受けているサトウ氏の洞察力であるから、リアルタイムの中、女史が全幅に近い信頼を寄せていたとしても不思議はない。チェンバレンバジル・ホール・チェンバレン)については語る必要もないであろう。日本を英国および欧州に広く知らしめたとしてあまりにも著名であり、同じ年生まれのラフカディオ・ハーン(ヘルンさんのほうがちょっと年上)との交流は有名で、書簡集もあるが、わたくしはまだ見たこともない。女史が横浜到着直後、またそれ以降も、お世話になったというのが米国人ジェームス・カーティス・ヘップバーン博士、ヘボン式ローマ字のお方である。バード女史は前記(↑)著作の前半で日光を訪れている際の記述の中で、逗留した金谷家についてふれられているが、のちの日光金谷ホテルヘボン博士との縁がたいそう深く、女史も博士の紹介によって、そこを訪れている。また、女史がエゾ地に渡った際、すでにエゾ入りしていた人物の中にオーストリア公使館の(ハインリッヒ)フォン・シーボルトの名を見つけることができる。この章の女史の記述が面白い。「・・・彼ら(注;シーボルトら)は明日奥地探検旅行に出かけることになっていて、南部沿岸で海に入る河川の水源地を踏破し、いくつかの山々の高度を測定する予定である。彼らは食料や赤葡萄酒をふんだんに用意しているが、とても多くの駄馬を連れて行くので、その旅行は失敗に終わることを私は予言する。しかし、私の方は荷物を45ポンドに減らしているから、成功は疑いない。」と、半分彼をのことを案じながらも、相当のライバル意識を抱いているようにもとらえることができる。こちらのシーボルト(ハインリッヒ)は季節的にはまだ早いが紫陽花=オタクサ(お滝さん)の名づけ親であり、ハインリッヒの親でもある、わたくしたちに馴染みの深い大シーボルト(フィリップ)の次男、小シーボルトと呼ばれている。大森海岸の貝塚で有名なモースとのアイヌ説論争でも顔を出している。のちに『蝦夷見聞記』(わたくしは未読)を刊行しているのだから、それなりの「成功」を収めたのだろうが、女史著作の中では、成功か失敗か、女史の予言があたっていたかどうかの、確認は、まだ、できていない。
 このように明治初期に英国はじめ欧州、米国から、アドベンチャーたちが日本という「みちのくに」を訪れているのは、もちろん、版図の拡大を求めた各国の思惑が色濃く、そのお先棒を担がされているという解釈もできるであろう、ただ、個々の興味の範囲でもって、未知の領域を探ってみたいという「冒険」心あるいは「探検」心が欠乏していたとしたら、なかなかできるものではない。ただし、女史も言うように、用意周到、計画性を欠いては単なる危険を冒す行為にしかならない。また、冒険心のみではない、彼らには異文化に対する異常な好奇心が備わっていたのだろうとも思う。その点においてはわたくしたちはほとんどアドベンチャーという試みをしない性癖なのだろうか、あるいは教育によって、そう向かっているのか、明確な検証は行なっていないけれど、およそ冒険の類はしないし、異文化に対する熱が低いと感じるのは、単なる勘違いでしかないのであろうか。近年、冒険家といわれる人たちは、いずれも自然を対象とした分野である。初登頂、走破、横断・縦断、その行為の中には当然ながら、経過していく土地ごとの人文的な関わりがあるのだろうが、本意とはいえないであろう。西遊記玄奘はじめとする三蔵法師たちの向かう先は異文化でなく、大陸よりもたらされた仏教という移文化の更なる探求のためという側面が強いような気がする、強いて言えば、冒険よりも探検に近いのであろう。いや、菅江真澄がいて、その前に少し動機が不明瞭だけれど芭蕉もいて、直近には宮本常一という方もおられるのではないか、しかし、彼らのことを民俗学者(研究者)と呼称することはあっても、冒険家とは誰も言わない、あるいは異文化への探検者と尊称されることもない。わたくしたちは長く、おそらく何千年もの間、隣のことを異文化と思わないで暮らしてきた、そして、そのまた隣についても同様で、そのようにして、遠くアジアを超える範囲まで、文化の差異を意識することなく、むしろ、「自」文化の押しつけを続けている。そのような特性をもつわたくしたちに異文化を探究するという資質があろうはずがないと考えれば、冒険など到底適わない所作であり、昨今流行りのベンチャーがいかに、逸(はや)りであるか、あるいは育てていくのが苦手であるかが理解できる。もう、そのことは明治の時代にもあって、おそらく、ずっと、その前から、引き続き、在ったのであろう。歴史とは積み移し、再び、そういう気分に陥ってしまうのだけれど、今のところ、それを否定する証もないし、もちろん、肯定できるだけの拠もない。どうも、バード女史を読んでいると、あっちこっち、さまよってみたい気にさせられる。今、また、ひとつ、寄り道しかかっていることがあるので、いずれ、書き留めたいと思っている。