かんかん(函館)

 朝、東京国際空港を離れて、昼過ぎに新千歳空港に着く。では、千歳(空港)はどこに所在するのかと調べたら、千歳飛行場として別(隣接)にあって、今でも自衛隊との共用はしているらしい。あわただしく札幌での用事を済ませ、予定より一つ前の函館行きスーパー特急「北斗」に乗ったけれど、日曜日は何故か指定席は埋まっているという、対応してくれた駅の人に聞くと、列車は9輌編成で指定席は1〜7号車を占めているというのだけれど、だめですねぇ、と、申し訳なさそうに、自由席特急券つきの乗車券を発行してくれた。発車まで、まだ、30分以上前ではあったけれど、「座りたい」のでホームに急いだ。もう、二人ばかり先客がいて、一応、自由席かどうかをたずねると、呼応して、いずれの方もこのあとの列車指定券を持っているけれど、早く帰りたいとのことで、自由席に甘んじたという。その気もちはよく分かった、何しろ、札幌→函館は遠い。JR北海道サイトで時刻表を確認すると、S(スーパー)北斗16号は札幌を15:07に出て、終着駅函館は18:24とある。次便の18号が着くのは20:14、6時に我が家に戻るのと、8時では、かなり心理的な違いがある、そういうようなことを二人目の方が仰言っていた。わたくしにしても、事前に調べて、できれば早い方に乗りたいと思ってはいたけれども、所用の所要時間に依存しているので、その夜泊まる旅館には8時過ぎチェックインと一応伝えてあった。
 湯の川というのは全国温泉地の中でも駅に近く、街に近く、そして、空港に近いという条件では屈指の立地にある。およそ30軒の大小宿・旅館が大雑把にいえば、港(ドック)→函館駅から市内を「のろのろ」と走りながら終点「湯の川駅」あるいは一つ手前の「湯の川温泉駅」に分かれて集まり積まれている。以前訪れたのは温泉駅側、どちらかというと街然としていて、内陸側にある小宿に泊まったが、今回は、終点からさらに海をめざして、松倉川(湯の川)を渡った集積地にある大宿に。実際にはタクシーを使って、前夜、ビジネスホテルがめっぽう増えたJR駅から来たのだけれど翌朝は時間もあったことから、温泉駅まで、10数年ぶりの大雪に見舞われたという温泉街を歩いてみた。以前訪れたときはもう記憶の奥深くにわずかながら残滓としてあるのみで、そうでなくても容量の小さい脳であるから、もう、その時分を思い起こせない。市電の乗り場所すらわからない、よろよろと、たまに背後から車輪を危なげに滑らせながら近づいてくる車に気をつけながら、そして、軒先、屋根の雪にも、滑り落ちてこないかと気を留めながら、ようやく人通りにぶつかった。そこは、まだ、電車道でなく、温泉通りという名が示すように瀟洒な、あるいは小ぶりな旅館がいくつも並び、いずれも軒先から立派な氷柱をぶら下げていた。温泉街の朝は早く、客はもう8時前には次をめざすか、あるいは帰途につくため、閑閑とした街の雰囲気の中でもって、例年に比べ雪も多く、厳しい寒さだという函館(かんかん)のその日は存外に暖かく、感官がしびれるほどではなく、歩くにはほど良いお日和でもあった。途中、湯の川温泉駅で停車している市電をみつけたので、一駅だけ乗って、終点で降りた。停車場からすぐの場所に湯倉神社があった。その境内脇(敷地外)に温泉発祥の碑があって、ひっそりと、由緒が標されている。15世紀初頭、つまり江戸初期に発見されたという湯で、その後、松前藩主の嫡男・千勝丸が患った際、ここで湯治をしたことから、広まったという。彼は、のちに4代目藩主(高弘)となったのだから、湯の川の湯は十分な効があったのかとも思ったが、高弘殿は早世(1643〜1665年歿)であったという。ただし、それでもってこの温泉の効果が薄いとはいえないであろう。
[湯倉神社隣の湯の川温泉發祥地の碑]


 以前、拙ブロ「百年の計」(05年2月1日付)で書いた『日本奥地紀行』の著者イザベラ・バードが函館を訪れたのは1878年夏、その9年前に松前藩は廃されている(松前藩→館藩→館県=廃藩置県)。当時の街の様子を女史はこう書き留めている。同年8月12日に青森より荒天の津軽海峡を渡って函館に入り、ようやく晴れた13日に記された日記の一部である。
『大きな雲は赤茶けた山腹に藍と紫の影を投げている。陸地にとり囲まれた湾の水はアドリア海のように青い。青白い小舟の白帆は紺碧の空の下で雪よりも白く見える。町の背後に聳える二つの山は、杉の林におおわれて、それほど険しくも見えない。砂浜が岬と本土を結んでいるので、ジブラルタルと地形が非常によく似ている。・・・』前日の嵐の中、女史はその風、土砂降りの様を、アーガイルシア(スコットランド西部の州)に例えている。アーガイルシアは今、調べてみるとアーガイル・ビュートとあるが、シアはランカシャー(雨がよく降る、雨を気にしない牛さんがたくさん)、ヨークシャー(雨が大嫌いな羊さんがたくさん、よって、雨は少ない)の「シャー」と同じなのだろうか。シア→シャー→州。それはともかくも、ランカシャーはアーガイルと同じく西部、女史がいうように、よほど嵐のような雨が多いのだろう、上陸したばかりの函館あるいは前々夜(黒石)、前夜(青森)も含めて、この辺りがアーガイルに似て、自然の脅威に曝されていると、女史が実感されたことは、それから70数年後(1954年)におきた洞爺丸の惨事でもって、わたくしにも、わずかながら想像できる。あるいは、以前訪れたときの雪は少ないけれど、風が強く、しびれるという、青函(シア)独特の気象条件にも共通しているのだろうか。
 本日は、ただ単に湯の川の温泉に浸かったことを(自慢として)書こうと思っていたけれど、想いが飛んでしまっている。前記バード女史の著書を繰り返し読んでいる。実は、上記拙ブロ内で、女史はサッポロを知らないのではと書いているが、こまめに当たって(読んで)いたら、函館滞在から何日か後に、その文字が登場していた。もちろん、ろくに読みもせず、断言(記)している、わたくしが悪いのであるが、女史のお蔭でもって、函館からスコットランド(アーガイル・シア)そしてアイルランド(チッペラリ、ドニゴール)へと心だけは馳せている。引き続き、書きたいと思う。想いが強すぎたのか、もう、恵方の日は過ぎ、鬼さんたちも御勤めを終えたようである。ご苦労様。
[湯の川の湯に浸かった(自慢)]
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[川べりを歩いていると、向かってきた飛行機。当然、わたくしは乗っていない、JAL1164]
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