パブなきもち

 公衆(公衆がなくなる日)ということを書いているあいだ、パブという、こちらは酒場のことを想いながらいた。05年12月1日付の拙ブロにて「公衆」について考えていたが、もともと英語のパブリックが和に翻ると公衆になる、しかし、わたくしたちは、本来の意味するところの公衆(パブリック)という概念はもちあわせていないのではという、勝手な考えである。繰り返すと、公衆という言葉は、タルドによって、それまで単に群衆と呼称していたグループとは明らかに異なる「ある一定のルールでもって、つながりのある集まり」の総称として、定義づけられた概念をさしている。
手元の国語辞典で検めてみると、
【群衆】むらがり集まった人
【公衆】世間一般の人
【大衆】多数の人々、民衆
【民衆】世間一般の人々、大衆
とあった。どうも区別があいまいなので、別の辞書(ネット)をあたってみると、
【群衆】
むらがり集まった多くの人々
a crowd (of people)
【公衆】
(1)社会一般の人々。
(2)社会学で、一時的に集合した群集に対して、分散的に存在し、メディアを通じて世論を担う人々。
the (general) public
【大衆】
(1)多数の人々。多衆。
(2)労働者・農民などの勤労者階級。一般庶民。民衆。
(3)社会学で、階級・階層などの社会集団への帰属意識をもたない多数の人々から成る非組織的な集合体。
the general public; 《ときに軽蔑的》the masses
【民衆】
国家・社会を形づくっている一般の人々。人民。庶民。大衆。the (common) people; the public
[goo 辞書より]
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 大衆酒場というのはあるけれど、民衆酒場というのはどうなのだろうか。1947(昭和22)年の国会議事録に民衆酒場の許認可という案件があった。これは、もう、敗戦直後の混乱期であり、大衆も民衆も、群衆も、ましてや公衆などという区別など、どうでも良いことであったのだろう。あるいは、二番目の辞書による民衆の定義ほどの意味であったのだろうか。中身を読むと、
勤勞大衆を相手とする酒場、われわれはそれを民衆酒場と名前をつけておりますが、…》とある。したがって、発言者あるいは立法者らの意図からすれば、上記、定義の大衆酒場に近いのであろう。
- 衆 - 治安及び地方制度委員会 - 33号(昭和22年11月13日)

 さて、パブというのは本来が前金制であるのも面白い。先に代金(サービス対価)を払っているので、お店の人は客の去就、出入りに気を遣うことなく、新たな客の注文づくりに専念できる。わたくしたちが日常お世話になる大衆酒場はそうではないので(後払いが原則)、仮にトイレが外にあったりすると、いちいち、店の人に断っていかなくてはいけない、あるいは、最近では呑んでいる最中の無粋な携帯電話の呼出音に反応して、外へと思うときにも、大仰に携帯電話を店の人にかざしてから、出る。わたくしは常にマナーモードなので、呼出音や着メロが存在しないから、なおさら、慎重に、外へ出ていかなければいけない。もし、無言無動作で出ようものなら、「ムッ」?!無銭飲食の疑いあり、と、勘ぐられてしまう恐れもあるし、店の人も客の挙動が気になって、(食い逃げ・飲み逃げされないかしら)と、自慢の腕が思うようにふるうことができないのかもしれない。そのためか、パブでは原則的に無銭飲食が発生しないゆえ客がどのような人間か、あるいは、住まいは、などということを詮索する必要はまったくといってよいほどないが、大衆酒場ではそうはいかないから、中には根掘り葉掘り、ねちねちと聞かれる方もいるのだろう、などと思うこともある。やはり、パブ(公衆)というのは、ある一定のルール(酒場では前金制という)があり、そして、隣近所(店中の客が)、わいわいと、何だか分からないけれど楽しく、お仲間やっているという雰囲気がある。対して、大衆酒場ではルールも何もないから、アッチでからみ、コッチで寝入るというような行状が茶飯事にみられるし、店の人も、本当は迷惑だから、早く追い出したいのだけれども、お勘定が終わっていないから、躊躇している、お帰りくださいとは言ったものの、そのまま支払いもしないで出て行かれたら、どうしようという不安にかられているからであろう。また、客もパブと異なり、お仲間は最初から知っている人だけの範囲内であり、決して、その外へ、お仲間を広げようとしないのも特徴である。こうしてみると、タルドのいう公衆の意味が少し分かったような気(錯覚)がしている。ただ、まだ、当然ながら明確に解っているわけではなく、あることを今、小さな脳の中で繰り返し、回りながら、公衆ということについて、さらに書いて(考えて)みたいと、思っている。