1959年=昭和34年(那覇中心徒歩記?)

という年を少し調べてみた。改正計量法が施行=メートル法全面実施(1月1日)、キューバ革命カストロ首相誕生(2月16日)今もご健在、伊勢湾台風(9月26日)などなど、山口百恵さんが生まれ、フランク・ロイド・ライト(建築家=以前の帝国ホテルを手がけた)が亡くなっている。ビリー・ホリデイも。天覧試合もご成婚も。十枚目(十両)で大鵬幸喜が優勝している。翌場所(1月)幕内入りを果し、敢闘賞。ついでに記せば、巨人は優勝(日本一は逃した)、タマゴは1コ15円ぐらい、玉子焼きは分からない?。愛知県挙母(ころも)市が豊田市に改名(衣替え)。アラスカがアメリカの49番目、ハワイが50番目の州となっている。第1回日本レコード大賞水原弘の歌った「黒い花びら」、大阪〜名古屋間に新型のビスタカー近鉄)が走る、ギザ10に替わり、ギザなし10が発行される・・・、あげていけば、きりはないけれども、『海流』はそのような社会背景の中で撮影された映画である。思い出す範囲では、往時の桜坂ならびに市内の様子、摩文仁(まぶに)の丘、世界遺産にもなっている中城(なかぐすく)、万座毛、そして、首里城のない首里の丘、というよりも、守禮之門しかない。ここから、那覇市内にはビルはなく、ほとんど平屋か二階家程度なので、わたくしが西(イリ)のアザナで見た慶良間諸島が、より鮮明に、大きく浮かんでいた。(もっとも、映画だから、サイズも大きく、見えるためだろうけれど)ここ(守禮之門)で、主役の大木実が、ヒロイン岡田茉莉子に、あの島に米軍が初めて上陸したのですね、と、初めて知った、わたくし。
 海流を観る前、山羊料理屋さんで前夜お会いした方と偶然、桜坂から市場へ入る境付近で、昨日はどうも、と、聞くと、今、一回目を観てきたといい、「良かったですよぉ」と、向こうはこれから市場へ、コッチは市場から桜坂へ。その日の夜、再び、山羊屋さんで、海流の話を。翌夜の話であるが、別の映画を観たという方が、やはりというのだろうか、観客は自分を含めても5人ぐらいという状況をお聞きして、海流は少なくとも20人以上はいたと、何度か、後ろを振り返りながら、そして、作品が終わったあと、数えた限りでは、いらっしゃったから、やはり、別物の映画だったのだろう。上映中も、ひそひそと、あそこだねぇ、と、わたくしにさっぱり分からないけれども、銀幕内の那覇及びその周辺を同時代人、同空間者として、くらしていた60代、70代の観客の声が、スクリーンよりもむしろ、わたくしにとっては、上物の作品であったかもしれない。