蓬莱(那覇周辺印象雑記?、久高島)

(続記)
 25年前、訪れた(はずの)久高民藝店は喫茶店が中心で、一部が壷屋焼きや琉球ガラスなどを販売していらっしゃったと記憶しているが、今回の旅行では、新しくなったお店の前を何度も通り過ぎるたびに、わたくしの憶え違いかと思いながら、ついに立ち寄ることもなく、眺めていた。それはともかく、明日帰るという19日(9月)は、どこへ行こうかと、船の予約状況や交通の便などを色々検索している中で、久高島(くだかじま)が浮上した。島に渡る船乗り場のある知念村(ちねんそん)安座真(あざま)までは那覇バスターミナルから38系統・志喜屋行きの東陽バスで50分とある。そこから高速船で15分、フェリーでも20分とあった。自動車免許を持たないので、他人に移動を委ねなければいけない、わたくしには、ちょうど良い日帰りの旅程である。降りるべきバス停は事前にホテル備え付けのメモ用紙に控えてあったけれども、念のため、乗る際に(後払いなので前から、もっとも前にしか扉はなかったけれど)運転手さんに久高島に行きますので、と断っておいた。よくあることだけれど、目的地の最寄りバス停が微妙にずれている(つまり間違っている)場合に備えて、一言かけておくと、安心だからである。万が一、寝込んでしまっても、起こしていただけるだろうなどという、わがままな気持ちもある。乗客も最初は、わたくしのほかに一人、途中何人か乗り降りしたが、地元の人ばかりなので、運転手さんもわたくしのことは忘れていないらしい、50分後、サンサンビーチ前というバス停で、しばらく、動かない。時間調整なのだろうかと、順調に来た道のりを考えていると、お客さん、ここですよ〜と、前から声が、あれ、わたくしは安座真港で降りるはずだし、まだ、その名の停留所は見ていない。しかし、運転手さんの仰言ることを信じて、料金を払い、不安ではあったけれど、降りた。道から港らしい一角が下に見えたので、歩いていくと、久高島行きの船乗り場を見つけた。結局、乗る際に一言なかったら、わたくしは、気がつかずに、通り過ぎていたことになろう。途中、佐敷(さしき)町を通る、町内に入ると、辺り一面サトウキビ畑である。もう、かなり前であるが、Field of Dreams(ケビン・コスナー主演)という映画があって、トウキビ(トウモロコシ)畑を野球場にしてしまうという話を思い出した。ここ(佐敷)にも沢山フィールドができそうである。シュガーホールと名づけられた音楽ホールがあるぐらいだから、同町でのサトウキビ産業は盛んなのであろう。佐敷町の総面積は千ヘクタール、うちサトウキビ畑は140ヘクタールだそうで、見た目に、広いと感じるのも当然なのであろう。ちなみに沖縄県土に占める米軍基地施設面積は10%、こちらも、やはり広い。(比較的)南国・半島生まれのわたくしも、小さい頃、道端に自生(もともとは育てていたのだろうが、そのうち放棄されたらしい)していたサトウキビをおやつ代わりにかじっていたが、甘くて、美味しいものである。しかし、今では人工甘味料や各種スイーツにおされて、産業自体の存続も危ぶまれている。トウキビがきつめられた町、で、さ敷町、と勝手に思っている。
[ピザ浜への道しるべ]
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  大きくない船乗り場には、すでに何人かの先客がいらして、皆、次の船までの時間を思い思いに過ごしていた。そこからは久高島がはっきりと見える距離にある。あとになって、電子地図で簡易的に測定すると、直線距離で6.5キロほど、船を待ちわびている観光客に地元の方が、泳いでいけるよと、そそのかしていた。定員30名程度の高速船は、波をかき分けながら、凄まじいスピードで島に向かった。実際には速くないのであろうが、たびたび客室内に押し寄せる波しぶきや直下に迫る吃線のせいもあって、水中ジェットコースター並みの体験をしながら、対岸の船着き場(徳仁=とくじん港)に飛び込んでいった。ほとんど予備知識をもたない、わたくしのことであるから、とりあえず、歩き始めた。港のすぐそばに貸し自転車屋さんがあり、また、あとで気がついたのであるが、船着き場の待合所にもそのシステムがあって、帰る際に、売店の方が、ノートに名前や数字やらメモをとっているので、島民の方は『付け』で物を買っているのかなと思って、よくみると、レンタサイクルの記録簿であった。島に着いた何人かのお客さんは借りて、島内を一周するつもりである。わたくしは、この島が以前うかがった天売島の1/4程度だと知っていたから(電子地図で調査済み)、徒歩で十分(じゅうぶん)と踏んでいた。時計と逆回り(東海岸)に進んで、最初に出るのがピザ浜である。浜は直接見えず、防風林にもなっているのか、鬱蒼とした、豊かな森林が間に存在している。樹上あるいは樹中から、今まで聞いたことのない鳥のさえずりが伝わってくる。
[ピザ浜のリーフ]
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 この島はいわゆる据礁(きょしょう、Fringing reef)?、堡礁(Barrier reef)??、atoll(アトール=環礁、ではないか、島があるから)ね・・・???、なのか、わずか前方のリーフ脇に漁民かダイバーか、人の影がぼやっと見えている。訪ねた時が干き潮にあたっていたのか、珊瑚の残骸を時々、ぐにゃんと柔らかい部分を踏みながら、切っ先まで進んだ。途中、潮の引きに乗り遅れたのか、それとも、もともと、そこが気に入っているのか、小ザカナや、ヤドカリ、ナマコたちがくつろいでいて、彼らの邪魔にならないように気をつけて、行けるところまで、海に近づいた、そのまま、サシ浜を抜けると、いったん、森に戻って、魚型をした手づくりの案内標識板に誘われて、イシキへ。再び浜に還る。ごつごつゴロゴロした岩に目が行き、近づくと、石碑が建っている。裏側に日付がある以外は、紋章らしきものの下に『御先』としか記されていない。オンサキ、むしろミサキと読むのが良いのだろう、中上健次氏をここで思い出すのは強引ではあるが、その思いが強く、印象記のはざまに新宮を一気に書く気になったのかもしれない。帰り道、机上の計測でもって、軽く一周できるだろうと高をくくっていた、わたくしであるが、暑さにやられた。もう、その先を歩く力は無く、できれば、その場に倒れてしまいたかった。渡嘉敷を訪ねた後に「頭には帽子を」と諭されていたから、手持ちのタオルを頭に巻いてはいたものの、その程度では役に立たなかった。背負っているリュックの底に常備している折畳み傘のことを思い出し、雨でもないのに差して、元に戻ることにした。まっすぐ延びる道を、牛さんの姿も見ながら、そして、反対方向から走ってくる自転車組の人たちに怪訝な目でもって見られながら、出る時にメボシをつけておいた小さな食堂に駆け込んだ。
 「これは何でしょうかね?」
 食堂のご主人にイシキ浜で撮った携帯写真を見てもらった、『ああ、これは、うにゃ※▼の流れ着いたところだね』、よく聞き取れなかったが、しつこく聞かないのも、わたくしらしい、島に着いたとき、船乗り場の待合室で、ここが神々の島であることは知っていたので、おそらく何かそれにまつわるものでも漂流したのだろうという、適当な解釈をして、出された時から、多すぎると思っていたゴーヤーチャンプルーを残さず食べることに集中した。
[物がたりの証]
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 イシキ浜には素的な物がたりが存在した。琉球ではニライカナイ(久高島ではニラーハラーか?)という神の国であり、魂が戻る地がある。イシキ浜に流れ着いたのは白い(金色とも)壷で、中には五穀が詰まっていたとされ、送り主はニライの国。それまで海と珊瑚に囲まれ、海産物と木の実や植物(草花)ぐらいしか食せなかった島への贈り物である。伝えによれば、その後、島の民は本島の玉城(タマグスク、世界遺産にも指定されている)に渡り、琉球王朝の祖を築いたとある。「五穀百工」を載(乗)せて出航した徐福のことが微かながら過(よ)ぎるのは考え過ぎであろう。
 わたくしの久高島滞在は3時間あまり、もちろん、島を一周するつもりで訪ねたのであるけれど、暑さで参ったと書いた。帰り途、民家の脇に祠(ほこら)をいくつも見た。中には住居より広い敷地に鎮まっているのもあった。「願所」(ぐわんじょ)という、島の民が日常的に、しかも、篤く、神々に祈り、願う場所なのであろう。もちろん、暑さに参っていたのだろうが、祠をみると、日陰を求めて、前段の食堂に早く入りたいという気持ちでもって、急ぎ足になる、わたくしがいて、イシキ浜以北に行く気にならなかったのも、暑さのせいではなく、神々が、これ以上、来る(上る)資格は、お前にはないと評されたと思う方が、何故だか、すっきりする。帰りの船では門前払いに遭った気持ちで、引き続き、バスに乗っても、晴れやかな気分で那覇まで戻ることができた。
 実際に確かめてはいないけれども、島には私有地という概念がなく、すべてが神有地、そのお陰でもって、さしたる開発もなく、今がある。
「神々の島久高島」
久高島ホームページ (久高島振興会)http://www.kudakajima.jp/index.html
[↑HPを再確認していたら、大当たりだった8並び]
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※再確認のため、アクセスした際に出たけれども、何度やっても、同じだった。神々の島は皆に平等なのかもしれない。