空白(那覇周辺印象雑記)

 空白というのは、こういうことを指すのであろうか。今月4日に拙ブログの管理サイトに面して以来、二旬近くがすぎてしまった。その過半を那覇市およびその周辺ですごしていた。公私ともどもではあるが、『わたくし』の比率が高いことはいうまでもない。先月に続く滞在であったが、その印象をつづる。
…二たび、まめや、さんへ。
 空青というのは下の写真のようなことであろう。
渡嘉敷島・阿波連ビーチ]
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 再び訪れた渡嘉敷島は、朝、那覇をでる時降っていた雨の気配はまったくみられず、一点の雲もないほど上々の陽気であった。先月と異なり、家族連れのお客さんがめっきり減り、学生さんらしいグループらが乗り込んだフェリーの甲板からはクッキリと島の姿が確認できた。島の宿が運行するバスは立ち客がでるほどの満載状態で、阿波連ビーチに戻ってきた。すぐさま、まめやさんに向かって歩いた。もう、東京近辺の沖縄展を終えて、通常営業しているだろうと、そう遠くもない道のりを、気がつくと急ぎ足気味に進んでいる、わたくしがいた。しかし、お店は全て閉じられ、軒先に先月頂いた「東京出張」のチラシが貼られているだけであった。急なご用事の方は下記携帯までお願いしますと加筆されていたが、わたくしの場合、急を要することではない、しばらく、とどまって、人の気配を探ったけれども、奥から、留守番役なのか、子猫が出てくるばかりなので、あきらめて、ビーチに向かった。途中、小学校脇を通ると、わたくしより少し背の高い石塀越しに声が聞こえたので、背伸びして中をうかがうと、何人かの生徒の影が確認できた。(05年度の児童数は24名)ああ学校も始まったんだなぁと、浜に通じる小道を下ると、先月以上に研ぎ澄まされた海の色が広がっていた。おまけに、空の青が素的である。ちょうど良い具合に木陰を見つけ、そこを、最終高速船にあわせて浜を出るバスの時間までの、わたくし専用の寝そべり場所と決めた。さらに幸運なことに、午睡(ごすい≒ひるね)するにはうってつけの石の枕がデンと座していたので、そのうえにタオルをかけて、お日様を浴びながらの横寝をし、しばらく浅瀬に膝まで浸かって透き通るような海水を浴びる、の繰り返しを、時々、水をとりながら、帰る頃にはすっかり、モヤシの肌がゴボウになっていた。山羊料理屋さんには、もう、前々夕、前夕(12、13日)と顔を出しており、前回お見かけした常連客の方ともお会いしていたが、この日、島から戻ってきたゴボウ顔のわたくしをみて、沖縄では灼けすぎるので、浜に出るときは帽子を被って、肌も晒さないようにしないと、あなたのようになりますよ、と諭された。翌々日、所用(公の部分)でうかがった事務所でも、「痛くないですかぁ」とご心配をかけた、わたくしのゴボウ肌は明らかに内熱をもっている感じであったらしい。さいわい、本人は鈍感なのか、多少の痛みは感じていたものの、大仰なことにはならずにすんでいるし、今ではゴボウの皮も剥けて、金平(きんぴら)を作るにはちょうど良い頃合になっている。
 前日(13日)は北中城村(きたなかぐすくそん)へ。那覇バスターミナルからバスに揺られて、途中、浦添、宜野湾、コザ(沖縄)などの街の風景が車窓に流れていく。普天間飛行場やキャンプフォスター(瑞慶覧=ズケラン)などの土地ばかりが目立ち、それらに包まれた(覆われた)すき間をぬうように(沖縄の人たちの)くらしが点々と存在している、という印象である。それは「キチ」にかわって次々とはいってくる本土資本ばかりの那覇市内にいる限りでは感じることがむずかしいことかもしれない。北中城村は1946(昭和21)年5月までは南に接する中城村と同じ村域であったが、キチにより分断され、分村を強いられた経緯がある。(北谷、嘉手納もそうらしい)現在では、かなりの部分が元に戻り、両村の再入籍も企てられたが、うまくいかなかったようである。キチは面的には小さくなりつつあるというけれども、包まれた内部は、外側から針で突付いても、決して破れることのない新種の被膜剤でもって守護されているような堅固さを、いつのまにか身に着けている。往き復りと乗ったバスの中で、そのことを感じながら、すき間のくらしを眺めていた。