オーバーユース(過剰利用)について

 6/14付「美・山」において過剰利用について書いたが、記憶があいまいなこともあり、当時のメモなどを検めた。と、いくつか、やはりというべきか、間違いがあったので、訂正しておくことにする。第一に芦生(あしう)の森への入山記録であるが、入山でなく入林であることはともかくも、98年(訪ねたのは99年で、記録はその前年のもの)で2万人(14日には1万5千人と記)と書き留めてあった。また、その観測方法であるが入林記録(正式には入林許可申請書)と出入口に設置されたビデオでもって映し出された頭(あたま)数などを参考にカウントされている。そのうえで、経験値(則)的に5万人(これは記載していなかった)という数値を割り出していた。また、町が主催するツアーはピーク時において3000人を超す参加者を記録し、もともと、個々の勝手な入林を減らそうという意図でもって、しかも、わざわざ料金を徴る(一般の入林はフリー)ことで、入林の抑制をと企画したツアーではあるが、「いつのまにか」、森に詳しいガイド付きが評判となって、かえって、入林を増長することにもなりかねない、ということで、森林の踏み荒らしを防ぐために、新たに影響を最小限に抑えることのできるようなコースを設定したり、ツアー参加人数を減らしたり、そういう工夫をしながら、自然と人間の欲求のバランスを保とうとしていた、と、メモにある。しかし、どうやら状況は(森にとって)良からぬ方向にあることは、前回も紹介したオーバーユースの所見例においても、うかがいしれる。
 森というのは野放しでもいけないそうで、時々(適宜)にヒトの手が入らないと、下草・雑草類が増え、主役たる樹々の新芽が育つのを阻む原因ともなるらしい。とはいえ、適宜を超えれれば、やはり、なんらかの悪影響を与えるのであろう。しかも、超えている分のほとんどは素人であり、物見の気分であるだろうから、利用過剰などということには考えも及ばないのであろう、新芽を踏んだりしても、お構いなく、あら〜、よかった、素晴らしかったで、終わることの方が多いから、森にとってはなんの役にも立っていない。ことごとく、ヒトの存在というのは自然に対して、そういう位置にあると思わざるをえない。おそらく、表面だけでのことではないだろう。もし、地球を最新MRIで輪切りにすれば、その診断結果は、ことごとく「要検(査)」ということなのだろう。ヒトの存在=自然には負荷でしかない、ということを真正面からいっても、極論だというようなことになりかねないので、あえていわないけれども、何もしないより、細かいことでもよいから、自然のために何かしようという考え方は、短期的な実践論としては、妥当な方法なのかもしれない。人は反省の上に立つと仮定すれば、これまで、さんざん汚してきたから、これから、あなたのお掃除に努めますと山をキレイにすることはほめられるべきなのであろう、町や市の標語に「環境との共生」を謳うことは当たり前なのであろう。そういう所作によって、今は乗り越えられるのだろう。しかし、根本は何も変わっていない、むしろ、悪化しているということを、どうするのか、すべて先送り(あるいは未解決、継続審議)しているとするのは、単なる過剰反応、(環境のためになることを)一切、何もしないで、ノホホンとしている無反応者の考えでしかないのであろうか。
 わたくし自身の考えを示せば、わたくしが生きてきた分だけ、自然を壊しているのだから、その(わたくしという)存在がある限り、依然として、破壊作業をし続けているという極論であるから、環境に優しいことをしようね、と誘われても、その方法はたったひとつしかないから、今のところ、丁重にお断りするしかなく、引き続き、破壊者として、存在するしかない。

[オーバーユースの所見例]※6/14付と同じですが。
http://bg66.soc.i.kyoto-u.ac.jp/forestgps/impact.html