言葉は生きている(変わる)

 標題はわたくしの卒論のタイトルでもある。内容はすっからかんであるが、題もいい加減なものである。さて、数日前、モンカショウ(文部科学相)が従軍慰安婦について、放った言葉、「当時(戦中)、そういう言葉はなかった…」、詳しい内容は分からないけれども、そのあと「そういう事実があったことは知っているけれど、そういう言葉はなかった」と言いたかったとフォロー?していた。確かに言葉というのにも浮き沈みがあり、それは単に流行語というレベルではなく、特に、日常語において多く見られる。それだけ、日常がめまぐるしく移ろいでいるということでもあろう。生活用品にハタキというのがあるけれども、叩(はた)くという言葉は日常、ほとんど使われていない。替わって、ダ※キンする…とでもいうのだろうか。以前、拙HPの方に掲載していた「失われていくモノが新しい」という中では、そうした、今はもうなくなりつつあるモノ、コトについて、これらは単に死語ということではなく、習慣あるいは日常生活の場から姿を消しつつあるモノ、コトばかりであったが、ひょんな拍子から復活することもある…というようなことをダラダラと書いていた。昨日の過剰利用は形こそ異なるけれども、同じような意味あいをもっているつもり(失われることが惜しいというような)で書いていた。消えるものがあれば生まれるものもある、それが日常であり、言葉にも反映される。したがって、言葉は生きている、変わるということである。もはや、社会主義というのは「失」の方であるが、たまにロシア系のネットを眺めていると、ほとんど新語といわれるものは主に英語表記をキリル文字(ロシアにおけるアルファベット)に置き換えているだけの場合が目立つ。そもそも、つい10年ぐらい前には存在しなかったモノ、コトを表記するにはそれしか術がなかったのかもしれない。ちょうど、日本の明治期に自転車、万年筆などが造られたように、もう少し気の利いた名づけようもあったと思うが、日に日に増える速度に追いつくためには、そのような悠長は許されなかったのかもしれない。中には内容(実態)は変わらないものの、表現(言葉)だけが変わっていくこともある。直近の例では、「オレオレ詐欺」が「振り込め詐欺」にいつの間にか変わっていた。話し言葉に限らず、書き言葉(今では打ち言葉かもしれないけれど)の方も勝手に変わっている。行なっている、伴なう、とワープロ上に打つと、「(遣い方が)間違っています」をあらわす蛇状の下(にょろにょろ)線が必ず、わたくしを煩わす。
 先のモンカショウは、言葉は変わるということさえ認識していれば、冒頭のような失言、暴言をすることもなかったのだろう、と、もし、北が、当時「拉致」という言葉がなかった…と吹いたとしたら、中山・モンカショウはご自身、どのように、お考えになるのだろうか。ま、聞こうとは思わないけれど、言葉も変わるが、人もころころ変わる、そういうことを省みた。