公らはタイプ・ライターにすぎず

 『三四郎』の3節中段あたりに彼が図書館で手にとったヘーゲルの書にかつて借りた者の留め書きがあって、その一句が標題の言葉である。タイプライターは今でいえばコピーにあたろうか、要するに大学の講義などというものは話したことを忠実に書き留める(タイプライティング=コピー)、代々、その繰り返しに過ぎないということなのだろうか。言い換えれば、ヘーゲルの時代も今も、根本的には何ら変わりがないということもできる。
 地層というのは時代の積み重ねであるといえ、人の歴史というのもそれと同様かと思いがちであるが、実は、そうでなく、積み移しでしかないのではと思うこともある。過去の積み荷をそのまま今の時代へと移して、そして、未来へと移し変える、その繰り返しが歴史のような気がしてならない。もちろん、その歴史に逆らう動きはいくつもあったけれど、それらは、全て、廃棄され、忠実に、決まった量だけを積み移す、それが、歴史というものなのだろうか。たしかに、歴史の「歴」の字は「つぎ」(≒継ぎ)とも読むから、まったく見当違いとはいえないだろう。いわゆる、守旧とか、保守というのは、それら積荷を移すこと、何の変化も決して、望まないということなのだろうか。
 最初のメモには、のっぺらぼうという言葉が繰り返し出てくる、歴史というものは、こうした積み移しによる「変化のない」つながり、そう定義づけておけば、何ら疑問を挟む余地はないだろう。