〓徊(ていかい)

 難しい字、そして、考え方である。〓(てい)という文字の意味を知りたいのであるが、手元に漢和辞典の類がなく、知る術を塞がれている。ちなみに「低」は「人(ニンベン)」と「邸」(家、屋敷、あるいは建物)が同サイズ(高さ)ほどだから、その建物は低いというところから来ているらしい、と、以前、何かの用で調べたことがある。これから、類推すると、行ニンベンは「(人が)行ったり来たり」で、それが低いので、「〓徊」=「思いに沈みながら(≒沈思か)、行ったり来たりすること」というところから来ているのではと、手元にある国語辞典で確認できる。わたくし的に勝手に解すると、好きな女性の家(もちろん、低いので平屋)の前で、デートに誘おうかどうか、行ったり来たり…であるが、先の辞書にはこうある。【〓徊−趣味】夏目漱石がとなえた文学上の立場。人情の世界に自分が直面することなく、ちょうど舞台の劇をみるように、第三者として世の中をみるところに美の世界が成立するという。『草枕』にみられる「非人情」というのも、これと同じ、とある。わたくしのは全く違う。
 《…三四郎は勉強家というよりむしろ〓徊家(ていかいか)なので、わりあい書物を読まない。その代りある掬(きく)すべき情景にあうと、何べんもこれを頭の中で新たにして喜んでいる。そのほうが命に奥行(おくゆき)があるような気がする。…》
 いってみれば、手前勝手な妄想の類なのであろうが、三四郎の場合は、両手で水をすく(掬)うよう、丁寧に掬しているから、単なるでは済まされない。まだ、二十歳そこそこのコゾウの言葉とは思えないとも言える。このあたりが、〓徊なのであろう。また、三四郎には三つの世界ができたと、述べている。
 要約すると、一つは脱ぎ棄てた過去であり、故郷(あるいは母)である。二つは苔むした煉瓦造り周りで繰り広げられている現在である。このなかに入る者は、現世を知らないから不幸で、火宅(かたく)をのがれるから幸いであると学府のことを述べている。第三の世界は、さんとして春のごとく動いており、電燈、銀匙、歓声、笑語、泡立つシャンパンの杯があり、そうして、すべての上の冠として美しい女性(にょしょう)がある。のちに、美禰子の出現となる、未来あるいは、ひょっとしてという期待、神秘の領域である。彼は、この三つの世界について〓徊するが、結局、全てをいったん丼の中に一緒くたに放り込んで、がらがらぽんとしてみると、《――要するに、国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問にゆだねるにこしたことはない。》という平凡な答えを自嘲的に導いている。もちろん、以上のことは、〓徊家である三四郎の独り善がりの妄想であることには違いないけれど、あるいは、たかが田舎出の青二才の戯言かもしれないけれど、いざ、わたくし自身に返してみると、丼の中から取り出すものは何か、平凡な答えさえ、出せない気分に陥るばかりである。
三四郎」(青空文庫
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