富のくに

 大分というのは島根(松江・出雲)を訪れる前年(03年2月)に、44番めにうかがった都道府県ということになるが、まことに標題の「富」という文字が似合うと思った。所用は別府にあり、小倉から、かわいらしいJR九州(ここの列車は皆かわいい)の特急に乗って、用先へ直行した。所用でお会いしたAさんがとてもすばらしい方で、用件もそこそこに、では、チョット、出かけましょうか、と、四輪駆動の車でもって、わたくしを助手席に座らせると、山の奥へと、連れて行ってくれた。とにかく、見せたいから、と、着いた先は山の中腹にある野天風呂だった。
[別府・山すそにある、手づくり野天風呂
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まだ、陽も落ちず、辺りが明るい中であったが、先客がいらして、山肌から湧き出す湯泉をそばにゴロゴロ転がっている石・岩で囲んだ手づくりの野天風呂を楽しんでおられた。カップ酒を手にし、美味しそうにしている湯客も…、思わず、素裸になって、隣に跳びこもうとも思った。しばらく、咽喉(お酒)と身体(お湯)が欲するのを我慢しながら、離れがたい気持ちに陥っていたけれど、Aさんに導かれながら、渋々そこを去り、あとをついて歩くと、そこそこにポコポコ・ボコボコと地下から勢いよく出ているのが見られる。Aさんに確認してから湯だまりに手をそっと沈めると、心地の良い、肌ざわりの良い湯度が指先から伝わってきた。
[pocopoco・bokoboko]
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「別府にはこういう場所がアチコチにあるんです」というAさんの説明を聞くと、そして、実際に目、手でもってふれた湯を前にすると、ふるさと創生ナントカで一億円もかけて苦心して、アチコチで温泉掘削している各地のことがアダ花のようにも思えてきた。山だけではない、海に注目すれば、これもまた富に満ちている。関サバ・関アジというと、今では高級魚の代表みたいな感がして、とても、食べる気にはならない(食べられない)が、その夜、氏が連れて行って下さったお店では、生け簀で泳いでいるサバをまるまるさばいてくれて、芋焼酎一升を空けた。ふだん油っ気の多いモノには手を出さないわたくしも、食べなれているのだろうか、Aさんが焼酎ばかりに手がいって、サバにいかないのをよいことに、大半をご馳走になってしまった。四国最西端の佐田岬と関崎(佐賀関半島)という狭い潮域の急流でたくましく育ったサバの適度な油と意外にスッキリ味な芋焼酎のバランスが良いのだろう。大分といえば、前知事の平松守彦氏が中心となって推進した一村一品運動が有名であるが、今でいえば村おこしの原点にあたるといえよう。中でも「梅・栗植えてハワイに行こう!」は大山町の名を全国的にした。同町は今年の3月22日に日田市と合併、あの中津江村(日韓ワールドカップカメルーン代表との交流)とお仲間になった。
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 Aさんのおかげでもって、以上のような思いがけない良い思いをしたうえに、わたくしにとっては、長年お会いしたいと願っていた「おヒトたち」と、とうとう対面できるというおまけつきの旅行(仕事のはずだけど)であった。別府駅から柳ヶ浦駅までは鈍行電車でも1時間程度、予想したとおり、何日か分の所帯道具を詰め込んだリュックを預かってくれるような場所もなく、といってタクシーに乗ることもないので、両肩に重みを背負い、途中、小雨に降られながらも、二十分ほどの道のりを歩くと、ようやく目的の東光寺「五百羅漢」にたどり着いた。これもまた、授業中、話を聞かずに教科書(地理か歴史か?)をぼぅっと眺めていた経験に基づく妄想から始まっている。大分には国東半島という、その筋では超A級の「おヒトたち」が別に存在する。また、臼杵には国宝の磨崖(まがい)仏(ぶつ)というのも在る。これらにもいつか行きたいとは思うけれど、まずは宇佐である。近づくと、窓を閉め切って、人気のない小さな建物があり、うっかりすると、見逃しそうな、弱々しいなりの拝観料箱があって、確か100円(以上か?)お願いしますとあったように記憶している。重たい荷物を預かっていただく分を上乗せしたと思う。預かるといっても小屋の前に置くだけのことであるが、ここまで来て、黙って持っていくような人はいないだろうと、安心しきれるのもココらしい空気である。肩の荷を下ろしたせいか徒歩の疲れも散り、これから羅漢さんたちに会えるという期待感ばかりが膨らんだ。
 十段ばかりの雛壇のような設(しつら)えに521体(524、538という記述もある)の羅漢さんたちが一斉に、わたくしをみている。
「こんにちは」
わたくしは人ひとり通るのも難儀な隙間をぬって、一人一人にあいさつして回った。それだけで十分の思いであった。わたくしは、ただ、これだけのことをしに、ココへ来ているのだろうけれど、では、ほかに何をしにココへ来ればよいのだろうかと考えても、一切答えは出てこない。ただ、彼らに会うことができさえすればよい、そういう思いを強くして、最後に彼らの最後列にお邪魔すると、522体目となって、しばらく、座していた。おそらく、わたくしがこの先どれほど「勉めて」も、お釈迦様のご供養に最初に集まったと伝えられる五百羅漢と同列になりようはなく、ただ、そういう夢か現を見させていただいた一瞬のために、ココに来たということだけで、すっかり満たされていたのだと思う。
宇佐市・東光寺の五百羅漢:後姿が素的である]
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 羅漢さんたちと別れを告げ、その帰りがけに庭の、病にでも罹ったのか幹の大半を切り取られた脇から、けなげにも花を咲かせている梅が気にかかった。東光寺の羅漢さんは当時のご住職が世相及び庶民の生業を案じて、日出(ひじ)町の石工に依頼して、造ったとある。文久3(1863)年というから、もう明治へのカウントダウンが始まっており、中央(江戸)では、ご一新の熱波が渦巻き、さぁ立国だという勢いがあったのだろうが、宇佐あるいは、いわゆる地方はそうでもなかったのだろうか。もしかしたら、寺庭の梅が、患いながら、それでも新たな芽を起こし、開花させたように、維新にいたるまでの地方の苦しみが支幹となって、明治という華を咲かせたのか、そういう思いでもって、梅さんにもお暇した。
[東光寺に咲く梅]
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 梅の季節ではあるけれど、中津では桃の節句を楽しむことができた。これは旅行中に、たまたまネットで知ったのであるが、旧家のお雛飾りを公開するというもので、例えば、日田、佐賀、など、九州各地であるらしい。で、今回は、帰途に福沢諭吉ゆかりの中津へ寄った次第である。駅前を少し歩いたところに昔からの通りがあり、その両脇の何軒かが自宅あるいは事務所の一部を開放して、伝来の雛飾りを展示していた。わたくしも古くからの醤油屋さんのそれはたいそう立派なお雛様たちを拝見した。
[中津のお雛飾り]
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 五百羅漢とお雛様を同列に語る必要はないけれど、お雛様はある意味、その家の格を著しているようで、わたくしのような貧乏家の人間には縁遠いものではあるとしても、醤油屋さんから頼まれて、作ったという近郷の人形職人といい、羅漢を明治14(1881)年までの19年間(安政6年から明治24年までの24年間という説もある)かけて彫ったという吉野覚之丞という石工職人にしても、いずれも、名工、名匠として、後世に名を知らしめたというわけではないかもしれないけれど、その身も心も、篤い信仰、大きな慈愛、あるいは、エンカにも通ずる庶民の深い悲哀を歌のかわりに仏や雛の姿として著していたのかもしれない。
 もちろん、全国各地にそういう例はいくらもあるのだろうが、わたくしには、この早春のできごとが、繰り返すけれども、大分はまことに富の国、すなわち豊の国であるという想いをより強くさせたに違いないのであろう。そのことが、決して富んでも、豊かともいえない、わたくしという素性、品性をより浮き上がらせて、このまま再び南下すれば、わたくしにとって46、47番目の都道府県となる、いずれも「ヒ」の国である熊本(肥)、宮崎(日)が広がっているが、それはいずれの機会としなければと、Aさんのお生まれになった佐伯市も含めて、必ず行くからと、またひとつ妄想をいただいて、北へと逃げる思いで、帰途の電車に乗った。