雲太和ニ京三

 昨年(04年)の晩夏に松江を訪れた。そのついでにというと、八百万の神様に叱られそうだが、出雲、にも寄った。両間はJRの鈍行で途中、宍道湖を南から眺めながら30分程度で出雲市駅へ、チョットへそ曲がりの人であれば電鉄で、松江しんじ湖温泉駅から電鉄出雲駅まで、1時間ほど、JRとは反対に北側から宍道湖を望めるルートである。両駅はほぼ隣り合っており、駅前には電鉄経営の新しいホテルがあり、小さなショッピングセンターとS社のLビヤホールがある。
 一畑電鉄は途中「かわと(川跡)」駅で出雲大社前駅方面と分岐しており、電鉄出雲から行く場合は、かわとで乗り換える。駅前の立派な通りを北に上がって出雲の中心地である今市付近を高瀬川沿いに歩くと、想像とは異なり殺風景さばかりを感じながら、それでも、とぼとぼと進み、キリの良いところで、駅へと戻った。後で知るのだが、川では今でも出雲特産の藍染を洗う光景が見られるらしいが、あいにく、そのような季節ではなかったのか、あるいは、わたくしの乏しい観察眼では、たとえ洗い作業をしていたとしても、気がつかなかったのかもしれない。
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  (出雲市観光協会HPより)
 駅前はまったく閑散としており、珍しく暑い日が続いていたので、ホテル下のビヤホールにしか、行き場所がなかったというのは、あまりにも言い訳がましいが、到着当日は、ただ、それだけのことで一夜を過ごした。
 翌日は、大社に向かった。ひたすら田畑が続く中を、電鉄に乗って、かわとで乗り換えても、30分とかからない。のどかな電車である、乗客の多くは出雲詣でかと思ったが、意外にも乗換駅で大半が降りてしまい、乗り継ぎの車内は、まるで回送電車のように寂しかった。出雲大社駅から大社までは徒歩で数分か、途中、大社の模型を陳列した資料館で基礎知識を得て、ちょうど昼時であったので、混んでいる蕎麦屋を横目に境内へと急いだ。
 鳥居をくぐると、うっそうとした杜が暑さにすっかり参っていた身体に心地よく、もうそれだけで、ここへ来たかいがあったと、神様たちに感謝の思いで一杯であった。と、お社に向かう参道の脇にある小さな石碑(石柱)に目が行き、みると、「長野縣諏訪郡■□※ 小口清助」とある。今夕、大社に問い合わせてみると、しばらく、何かを調べていらっしゃる様子で、「平野村!」と電話の向こうに、見つけたという満足を感じさせる声が響き、判明した。ついでに、わたくしは刻字だけに気がいって、その部分だけを撮影したことから、とんでもない勘違いをしており、小さな石碑ではなく、実際には「大きな石灯籠」であることも教えていただいた。大正7年2月建立とあり、平野村は今の岡谷市(昭和11年に村から市に昇格)である。それ以上のことには、今確かめようがないが、わたくしが、何故そのような石灯籠に関心をもったのかは、ただ単に出雲と諏訪という、不思議な二つの大社のはるか古をみているにすぎないのだが、思いがけず、知ることとなった大正期に詣でた「諏訪の」小口氏が、それをなおいっそう強めたということになる。うっそうの杜といい、石灯籠といいい、境内に入る前から、この社はやはりただものでないと感じていた。
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 社務所を覗くと、お札やお守りなどとともに何種類かの冊子を頒布しており、中から『出雲大社由緒略記』『出雲大社の本殿』を選んだ。前著は大社編(初版昭和3年)、後著は文学博士・平泉澄氏、工学博士・福山敏男氏によるものである(昭和30年初版)。
 さて、標題のことである。雲太(うんた)和ニ(わに)京三(きょうさん)と読むらしい。平泉博士の文を借りると、よりポピュラーな言い回しとして、「坂東太郎」(利根川)、筑紫二郎(筑後川)、四国三郎吉野川)があるように、何がしかに順番をつける際、「太」郎(一郎)、「二」郎、「三」郎と表する方法のようである。平安時代の古書「口遊(くちずさみ)」にある言葉で、「山太、近二、宇三」は橋梁の長さ、山=山崎橋、近=勢多橋(勢田の唐橋)、宇=宇治橋である。また、仏像の大きさを表わす「和太、河二、近三」は大和の東大寺、河内・知識(ちしゃく)寺、近江の関寺となる。
 今風に表せば、東太・浜二・阪三は人口の多い都市3傑、ラン太・ワートレ二・りんゲー三は日本のノッポビル三つ、ランドマークタワー(横浜、296M、70階)、大阪ワールドトレードセンター( 256M、55階)、りんくうゲートタワー(大阪・泉佐野市、256M、56階)とでもいえばよいのだろうか。
 雲太和ニ京三は建物の高さを表しているようである。現在の出雲大社本殿は高さ8丈(約24メートル、1丈=約3メートル)であるが、往時には16丈、あるいは32丈という言い伝えもある。96メートル(32丈)といえば、ビル20階に相当するから、途方もない高さであり、仮に10階建て(16丈)相応の本殿が存在していたと想像しても、おそらく、人の身の丈以上の高さは樹木ぐらいしかなかっただろう太古の時代には、まさしく空を引っ掻くような威容であり、izumoの勢いそのものを示していたのではないだろうか。ちなみに和二は東大寺大仏殿、京三は京の都、大極殿八省である。
 空を引っ掻くモノ、Skyscraper(摩天楼)をテーマとした興味深いサイトがある。ずばり、Skyscraper Page。これによると、世界一のビルは「Taipei 101」508メートル、二番目が 「Petronas Towers」 452メートル( Kuala Lumpur )、長く、ザ・Tallestの座を続けてきた「Sears Tower」442メートル(Chicago )は3位、ただしアンテナ部分を含めると527.3メートルで依然世界一!である。
 「ヒト」というのは高いものに目が行く習性を持っているようである。時として、高さへの関心は、力を示す動力ともなっている。今、歴史的建築物だといっても、お城にせよ塔にせよ、しょせん、持ち主の示威行為であることは否めない。そのこと自体は十分承知できるとしても、私の思うのは、お殿様たちは、普段、お城にお暮らしになって、高さへの恐怖というものを感じなかったのだろうかという、つまらぬことである。わたくしが高所は苦手であるからなのかもしれない。あるいは、その程度を怖がっていては、一国一城の主にはなれない…むしろ、そのように考える方が妥当かもしれない。
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 明治23年9月13日夜半、初めて、詣でたヘルンさん(ラフカディオ・ハーン)は、こう記している。
『神国ということは、日本の尊称である。しかも神国の中でも最も神聖な土地は出雲である−(中略)−出雲の国の中でも杵築(注;出雲大社のこと、古くは杵築大社と称していた)はとくに神々の都会であって、その古い社殿は古代信仰、神道という偉大な宗教の本である。
 余が出雲大社を見たということは、ただ珍しい社殿を拝観したということに止らず、それ以上のものを見たことになるのだ。出雲大社を見るということは、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということなのだ。今日この十九世紀に大きな脈動をつづけている古代信仰を示す出雲大社を見るということは、つまりそうした悠久な古代信仰の脈搏に触れることなのだ。』(「出雲大社の本殿より」)
 八雲(立つ)は出雲の枕詞でもある。
 また、高さ23丈(70メートル)の太陽の塔を創った岡本太郎氏は最高の賛辞を述べている。
『分厚いボリューム。千木をてっぺんに、ぶすりと太々とした柱を地上に突きたてているたくましいハリを組み上げ、荘重でいながら空間的な切れ味。日本の過去の建築物で、これほど私をひきつけたものはなかった。この野蛮なすごみ、迫力、おそらく日本建築美の最高表現であろう。』(同著、記述年月不明、つまり、太陽の塔の前か、後かは分からない)
 また、機会があれば出雲大社を訪れたいと思う。次回は、社務所に上がりこんで、小口さんの石灯籠について、もっとく詳しく、お話を伺いたいものである。
 ところで出雲に行った目的の一つに、本場の蕎麦を食べてみようということもあったが、あいにく当日は土曜日であり、参道の食堂は人で混みあっているうえ、呼び込みがうるさく、とても中に入る気にはなれなかった。それならいっそ、駅前の定食屋でビールでも呑んでいようと、帰りはバスに揺られていった。
 夏の蕎麦は美味しくないと聞いている。

「松江・・・あらゆる水をもつ町 」
http://hisada.blog3.fc2.com/blog-date-20050206.html
「長田染工場」(藍染)は出雲市観光協会HP「いずもの名産品を買おう!」の工芸品の欄にあります
http://www.izumo-kankou.gr.jp/
タワー10傑「SkyscraperPage」より…これはキレイ!
http://skyscraperpage.com/diagrams/?1241105
SkyscraperPageを紹介してくれた「タワフル」…これは面白い!
http://www2.odn.ne.jp/yoko-tower/menu.htm
長野県の小口さん(別人)と石灯籠…これは大きい!
http://www.lcv.ne.jp/~okayamed/hiroba/ishikaihou/107/107.htm