暴徒 オン ザ BOAT

 79年の旅行で、ノルウェイにも行った。何を思ったのか、ひたすら北をめざし、ロフォーテン諸島へと行こうと思った。例によって、地図上の妄想、ついハジ(端)へと眼が行く習性が作用したのだろう、夜遅く着いた、といっても、真夏のノルウェイは昼間のように明るいが、ナルビクの港から、とりあえず、すぐに出航するという船に飛び乗った。乗(船)員、乗(船)客あわせても10人程度の小さな船はドコカの島をめざして、沈みきらぬ太陽が、いつもまでもグズグズとしていて、その光でもって、眠りに陥られないうえに、かつて経験したことのない揺れに、床に全身をつけるようにして、酔いに備えた。以前、何かで、身体を床に接着させる比率が高いほど、症状が軽く済むと知ったからであった。朝方、いったん陽が沈んだように思えたが、すぐに、ご来光…、床にへばりついたまま、眠ったのか、いつのまにか、どことも分からぬ島に着いたのは早朝5時ごろだったように思う。ココに留まるか、といって、何の知識も仕入れずに上陸しているし、第一、人影が、今着いた船関係者しかいない・・・、結局、折り返しの同じ船で、元に戻ったという、なんとも中途半端な逃北行?であったが、わたくしの中では、最初で最後の大きな揺れに遭った経験である。
 それに比べると、明治期に操船されていた「川崎船」というのは、もっと苛酷な条件の中、北の海で鰊、鱈などをめざしていたらしい。川崎船とは、5〜10人程度が乗れる手漕ぎ(櫓)と簡便な帆が装着されている和船の原形のようであり、川崎とは、川の崎(先)=河口付近に住んで、漁撈を営んでいる人たちのことを「かわさき衆」と呼び、彼らが操っていた船のことを指すということらしい。明治期には各地で川崎船による漁業が産業として成立しており、秋田川崎船、庄内川崎船といった固有の集団として呼称されるプロたちも存在した。『蟹工船』(小林多喜二)には川崎船という言葉が何度も出ており、漁をする以上、覚悟しなければならない自然の猛威に対して、人(漁師)よりも船を優先するさまが描かれているので、ご存知の方も多いだろう。
 まだ、走り読み程度でしかないが、小納さんの『明治期の天売沖二大漁船遭難事件』には明治35年及び41年に暴風に見舞われた、いずれも200名を越す犠牲者を出した未曾有の惨事について、詳しく、著されている。今、読んでいる『天売・焼尻両島史』にもふれられている。当時の両島も、主に秋田、庄内(山形)及び越中(富山)から出張ってきた川崎衆が漁の覇権を握っており、同史によると、

 《出稼建網業者は本拠を秋田県富山県等に置き、春三月初旬に両島に米噌・資材を携えて渡り、番屋に居住して漁労・鰊加工の全般的な指揮をとり、六月末に漁夫の切上げを見届けて故郷に帰るの常であった》とある。
 当然ながら、遭難者の多くは、彼らであった。
 当時の両島はそれぞれ2千人程度が住んでおり、明治29年の記録であるが、理髪や料理店、芸妓、僧侶、浴場といった職業がみられ、たいそう華やかな様子が、前述の両島史からうかがわれる。ちなみに、今年3月末の人口は天売島422人、焼尻島350人と、羽幌町のHPにあった。
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 乱暴にいうと、漁業というのは獲り放しで、育てるなど、その後のケアはしないできた。(今は、中間育成、栽培漁業などの養殖が行なわれているが)。比べて、農は「育てて、穫る」の繰り返しを延々と行なってきた。その意味では、「漁」は「農」ほどの辛抱は要らないと思われるが、漁には前提として命を賭しているということがあるから、ある意味、農とは比べものにならないほどの辛抱を強いられているのかもしれない。獲物が出れば、寝食も置き去りにして、荒海だろうと、船を出し、それこそ、人手仕事だから、定員オーバーも構わず、漁夫を乗せて、獲るだけとって、人と魚の重みで船が沈みかけながら、オカに戻ってくる。そんなことを繰り返していれば、当然、リスクも大きくなろう。それでも、彼らは、オカで待つ家族のために、命を賭しているのだから、わたくしのように何も賭していないモノが獲り放しなどという暴言をすべきではないだろう。
 《蟹工船には川崎船を八隻のせていた。船員も漁夫もそれを何千匹の鱶(ふか)のように、白い歯をむいてくる波にもぎ取られないように、縛りつけるために、自分等の命を「安々」と賭(か)けなければならなかった。――「貴様等の一人、二人が何んだ。川崎一艘(ぱい)取られてみろ、たまったもんでないんだ」》(小林多喜二著、蟹工船より)という状況もあろう、
 《…私の祖父は当時建網の船頭をしており、あの時(三十日)[注;明治35年4月30日の遭難]投網し、どんどん鰊が乗網して遂に枠を放すまでになった。しかし風雨一段と厳しくなり、鰊満杯の枠網を吊した枠船の避難移動は不可能であった。祖父は決断を下し、枠網の鰊を放棄し、辛うじて九死に一生を得たと言う。…》(『天売・焼尻両島史』)というのもあろう。
 いずれにしても、賭していることには変わりはない。

 今、日本という小さなボートに1億3千万の暴徒が乗っていること自体、以上のことを、考えれば、不思議でたまらない。

例によって青空文庫です。(蟹工船小林多喜二著)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html