忘却とインフルエンザ

 この後引きの風邪のためか、電話してくる方、皆が、大丈夫ですかと、気を遣ってくださる。穿ってとらえれば、(仕事の方は)大丈夫ですかということなのだろうから、わたくしも、やぁ、もう辛くて、仕事になりませんと、言えば、良いのであるが、そういう会話に楽しみを感じないため、素直に、有難うございますと、返事をしている。今日もその種の電話で、わたくしが、つい、「鳥インフルエンザかも」と口を滑らすと、「また、そんな古い話をしてぇ」と相手が答えた。
 「・・・」
 なるほど、鳥インフルエンザは確か1年前には世間が大騒ぎしていたという記憶があるが、その記憶すら曖昧になるほど、もう、古い話なのかもしれない。人の噂も七十五日、二ヵ月半もすれば忘れられるのが噂ならば、「鳥イン」ほどの重大かつ衝撃的な事件も、その5倍程度の時間の経過によって、過去のことになるのだなぁと、ある意味、その速度に驚いてしまった。芥川龍之介の有名な作品のひとつに「鼻」というのがあって、禅智内供(ぜんちないぐ)はだら〜りと長く、ぶら下がっている鼻が周りの者の恰好の噂話の材料になっていることを気に病んでいたが、ある時、弟子に勧められて(唆されて?)、鼻を短くした。と、人というのはおかしなもので、前(鼻が長い時)にもまして、自分のことを哂っている人々に気づいた。
 人の不幸は蜜の味というけれども、芥川はさらに深耕して、「人間の心には互に矛盾(むじゅん)した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥(おとしい)れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。」と書いている。
 鳥インフルエンザも、あのまま、被害がさらに甚大になったり、あるいは、養鶏業者が今もって世間に曝される映像が流れていたりすれば、わたくしたちも忘れることはなかっただろう。しかし、ことの本質はともかく、表層の部分では、もう一度不幸に陥れたいとか、敵意を持つといった感情は当事者の死という現実により、失せてしまったのかもしれない。もう、その時点で心の矛盾の関心を他に向けていたのだろう。単に時間経過の問題だけではないと考えたい。もちろん、当事者の責はそれで済むことではないと承知しながらも、わたくし達の心の中では、もう済んだことになってしまっているから、たった1年前の話が、もう古い部類になり、忘却領域へと潜行していくのだろう。このブログの初回に書いた阪神淡路大震災や南アジアの津波被害にしても、心に矛盾を持っていないと、忘れてしまう、悲しいことかもしれないけれど、そういうものなのかもしれない。傍観者の利己主義、芥川はそう表現している。
 わたくしがひいた風邪のような後引きは所詮、自分の不摂生で済まされるけれど、上記のことは、いずれも、それでは済まされるものではなく、忘却することなく、後引きしていくべきなのだろうけれど、残念ながら、人にとって、それがもっとも苦手なことのひとつでもある。

 まだ、風邪が完治しない。

青空文庫芥川龍之介著「鼻」
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