ふなべた(新潟)

 新潟の特定の、お酒が、未だ、もて囃されている頃、そういう店を避けて、なるべく、客のいない、できれば(店の人以外は)誰もいない宿り木を選んでいた。もともと、旧二級酒≒現本醸造が好きな、わたくしには、それで十分なのであるが、新潟市で入った店も、「そういう店」であった。
 ご夫婦二人でやってらっしゃるのだが、最初は無口に呑む、わたくしに遠慮しているのか、話しかけることもなかったが、何本か呑んだ末に、わたくしの口も滑らかになっていることもあり、会話が成り立った。娘さんが東京の大学に通っており、ご夫婦も揃って、上京することがあるそうで、上野の鈴本亭(演芸場)に行くのが楽しみという。恥ずかしいことであるが、わたくしは行ったことがなく、そう正直に申告すると、「ま、私の趣味ですから」と、横目で奥さんを窺っている。すかさず、「私も楽しんでいますよ」とフォローする奥さま。
 そのうち、「ふなべた」の話になった。おそらく、わたくしが何ですかと聞いたのだと思うけれど、ご主人が丁寧に教えてくれた。「ふなべた」は鰈(かれい)の一種であり、中でも小振りの方で、以前は所謂、雑魚扱いだったという。ふなべたとは、舟の底という意味で、舟から水揚げする際に、最後まで船底にへばり付いているのが「ふなべた」で、せいぜい、漁師が家に持ち帰って、食すか、猫の御馳走になる程度だったらしい。
 今は、もう、そうではなく、「ふなべた」という御品書として、立派に通用するまでになり、その背景には漁獲そのものが減っていることがあるらしい。したがって、「こんな店だからこそ、ふんだんに出せた、ふなべたも、もうウチのような所には手に入り辛くなってしまいました」と、当然ながら、その夜もメニューを見るだけで、わたくしの口には入ることはなかった。
 もう十数年前になるが、鰯(いわし)が同じ運命を辿っている。その頃仕事で外房に行っていたが、鰯が消えた(獲れない)と地元の人が悩んでいた。原因は、当然、獲り過ぎ(獲るだけで、育てない)、地球・海洋環境の劣化、漁師さんの高齢化・跡継ぎ難などがあるだろうが、もしかしたら、鰯も、ふなべたも、自分たちをぞんざいに扱う人間どもに愛想がついて、どこか、海の奥底に引き篭もってしまったのかもしれない。あるいは、人間たちに倣って(あるいは先行して)、リストラが進み、今では、勝ち組鰯やふなべたのみが、(高嶺で)世に出ているのかもしれない。
 
 雑魚が成り上がるのは、ある意味心地よいことかもしれないけれど、できれば、雑魚は雑魚のまま、わたくしの口に気軽に放り込める程度に留めてほしい。