空白の飯豊(いいで)山中〜流れ灌頂(継)

 わたくしにとって、標題の飯豊山地あたりは未だに踏んでいない地域のひとつである。もちろん、そういう場所は日本中、世界中、いくらでもあるが、行きたいと想って、そうなっていないという意味でのことである。地名は難読でもある。飯豊の由来は、飯が豊かに盛られている山容だそうで、各地にある飯盛山と同じのようである。電子地図で検めると、近くに飯森山というのもあって、その南には「ごちそうさま」で、鉢伏山もあった。
 イザベラ・バード女史の『日本奥地紀行』第十七信は越後から羽前に入る場面で始まる。今でいえば、JR米坂線に近い経路をゆくが、容易ではない。もっとも、米坂線も並大抵ではないけれども。(坂町駅時刻表/平日;JR東日本サイト)※休日も同じ
 羽前玉川とでも付けておこうか、今は山形県小国町の新潟県境(関川村)に接する村に女史は踏み入れるが、第十八信では小国、黒沢、市野野、白子沢と現在の国道113号よりさらに山あいの深い途(みち)を経て、宇津峠を越える際を、
「私は、うれしい日光を浴びている山頂から、米沢の気高い平野を見下ろすことができて、嬉しかった。」
 と記している。どうも、米沢には寄っていないようである。

 以下は、手ノ子から松原という農村に向かう間の様子を抄(ぬ)きがきしている。手ノ子も松原も飯豊町にある。

 女史は越後の国のいたるところで、木綿布の四隅を竹棒で吊ったものを見かけている。長くて幅の狭い木札(塔婆)に墓地と同じ刻字もあって、いつも木製の柄杓が置いてあることにも気づいている。
 手ノ子から下ると、僧が道傍にあるそれら(上記の布を竹で吊ったもの)の一つに柄杓いっぱいの水を注いでいた。布はゆっくりと水浸しになった。僧に訊くと、木札には女の戒名が標されており、これは彼女を弔うためだと云う。
 
 ここよりは、原文章を引いておく。(高梨健吉氏訳/平凡社ライブラリー

 《これは「流れ灌頂」といわれるもので、私はこれほど哀れに心を打つものを見たことがない。これは、初めて、母となる喜びを知ったときにこの世を去った女が、前世の悪業のために血の池という地獄の一つで苦しむことを(と一般に人々は信じているが)示しているという。そして、傍(ソバ、カタワラ)を通りかかる人に、苦しんでいる女の苦しみを少しでも和らげてくれるように訴えている。なぜなら、その布が破れて水が直接こぼれ落ちるようになるまで、彼女はその池の中に留まらなければならないのである。》(これは、破水のことを暗示しているのだろうか〜ただし、母親が新たな命を授かり、現世に残している子を看たいがために、生き還りたいということなのだろうか?わたくしには分かりようがない)

 この寂景(すがた)は騎西町に伝わる話と畳(かさ)なる。(拙ブロ⇒流れ灌頂(ながれかんじょう;09年5月15日付)

 お産を間近にした女性が医師に貴女自身も危険なので、どちらか(自身か子か)だと尋かれると、必ず、子を択ぶと聞いたことがある。
 母としての喜びと、その(亡き)後の無念さ、女史の謂う「哀れに心打つ」である。(わたくしには解かりようがない)

 少し、’新しい’数値であるが、過去60年の妊産婦死亡率の推移をみると、1950(昭和25)年→161.2/対10万人は2006(平成18)年には4.8(同)とほぼ30分の1となっている。(母子保健総論/加藤忠明氏/国立成育医療センター研究所成育政策科学研究部)
 医療技術、統計手法などの違いもあるが、やはり大きな変化である。だからというわけではないけれども、こ(今)の時代に、流し祈願(と、女史は流れ灌頂をスケッチの脚注にそう記している)をみることはまずないのかもしれない。

 それを、みないほうがよいのはあたりまえであるが、只今は流れない灌頂も少なくない、偉そうに書けば、そういうことを想う。

 明日は『放浪記』(林芙美子さん)を了える。