お地蔵のご利益
訪ねた先は松戸駅より西へ徒歩・とぼ20分ぐらいか。要するに江戸川に向かっている。当てはないが、ただ漠然とであるが、水神宮(神社)と来迎(らいこう)寺に。いずれにもお地蔵さん(ぽい)がゐて、ご挨拶をした、ただ、それだけのことである。
[右が水神様、左がお寺さん]
水神様は平潟神社とも謂う。只今、旧遊郭地である場所に立っている。江戸川は水運の要であったから、往時の平潟も栄えていた。
明治15年「郵便報知」(報知新聞の前身か)に「明治14年千葉県統計書」の資料にふれた記事がある。
《・・・平潟遊郭の娼妓(しょうぎ)数を一日平均35人としており、船橋76人、千葉45人には及ばないが、、、》
当時は宿屋がいちいち雇傭していたわけではなく、それぞれが個人事業主として、定期的に休むものもいれば、日・夜ごと出る場合もあるから、それらを均すと上記人数となるのだろう。
[平潟の名が]※現住所は松戸市松戸である
帰りに立ち寄った市立図書館で『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎氏・著)を眺めていた。1937(昭和12)年当時の平潟を再現した地図があった。複写して、持ち帰り、それを眼で追っている。最盛期の平潟には旅籠屋が33軒あったといわれる(松戸本町自治会のホームページ)が、前著前図では10軒程度に減じている。渡邉氏は明治半ばに遊郭が形成されたと記されており、当初(江戸期)、舟宿から始まった飯盛女という女中を抱えた(本町自治会HPの表現より)生業が定着(陸化)して、そののち、「正式」に遊郭となったのが10軒あまりと勝手に想っている。
本町自治会サイトに謎の絵師・松井天山(哲太郎)による遊郭の鳥瞰図があった。渡邉氏のわずか3年後であるから、共通する部分も多い。
水神宮(平潟神社)、来迎寺、あるいは地蔵尊(現存しない?)の文字も確認できる。ちなみに、明村とは現在は松戸市に呑みこまれているが、根本、岩瀬、古ヶ崎などの在(地域)をさしており、圓勝寺の門札にはそう誇らしげにあった。
[真言宗豊山派雲仙山弘福院]
もちろん、遊郭の容(かたち)は今はなく、1994(平成6)年5月29日、三井家(旧九十九楼)が取り壊しという記事を図書館で知った。
明村に入って六間川沿いの小径を迫るような民家に半分ぶつかりながら、進んだ。たいそう大粒な青梅が鈴生りであった。
[梅干にするのだろうか、それとも梅酒だろうか]
途中、圓勝寺を冷やかし、鵜森稲荷神社を覘く。以前は江戸川の中洲にあって、鵜の棲み家(森)であったと、由緒書に載っていたが、河川や道路改修などで流転し、現在地に治まっている。
[流れ流れて今の地に]※在の方のご尽力があった
江戸川に出て、街場に戻り、お蕎麦を食べようかと、向かうと、あった。さらにみると、金・土・日曜日と祝日の営業のみとある(この日は土曜日)。あと30分程度で開店ともあるので待たせていただいた。
[偶然、通りかかった]
どうぞ、と、時間前に通されて、まだ誰もいない座敷の隅にぽつん。
田舎(十割)そばを。
もしかしたら、お地蔵様の思し召しか、と思いかけたが、信心のない、わたくしなので、そうではないと、考えを変えた。
江戸川に出た。風を浴びた。
おんか かか りさんまい そわか