難波宮

 翌18日(1月)は予定がなかった。ただ、東に下るだけの日程しか考えていなかったけれど、ふと、思いついて、荷物を宿に「夕方まで」と託して、安土町を東に向かって歩き始めた。人っ子ひとりいない中を、通りの両脇にある建物や空地(公園も)を眺めながら、とにかく歩を進めた。方向音痴であるが、いったん方向が決まれば、問題はない。もう何度もこの辺りの地図は見ているから、この先、いつか、お城にぶつかり、行き止まると知っていた。正確には手前で行き止まり、仕方がないものだから、中央大通りという扁平な道に出ざるを得なかった。思いついたのは、以前から気になっていた難波宮に立とうということである。
 645年に蘇我氏が滅ぶ、乙巳の変(いっしのへん)である。これを機に、都は飛鳥から難波へと遷り、652年に難波長柄豊崎宮が正式に都となる。手許の「日本史年表・地図」(吉川弘文館)には645年とあるが、これでは、同年の変をかなり前から予測(企図)していなければ、造営が間に合わない。やはり652年遷都〜667年近江大津京に遷される間を難波宮の時代と考えた方が分かりやすい。ただし、こちらは前期であり、世紀を変え、後期時代がある。そちらは、前書によれば744年、参考とさせていただいている「史跡難波宮」(ありおすのページ)も同様である。また、前期は、宮のまま、比して、後期は京と称されているところから、前者は仮の都というべきなのだろうか。大化の改新とも謂われ、新たな社会が芽生え始めた頃であるだけに、落ち着きもない、皇家の方々も、そうでない人たちも、あちこち、難を避けて、移り動いていた様(さま)を都(宮)の遷され方から覗きみた気分にさせてくれる。

[只今はただの空き地]

難波宮遠景

[近くまで都市化の波が押し寄せている]

難波宮ビル景

難波宮からお城を望む]

 まったくもって分からない思うけれども、史跡公園内にあった案内図によると、あの辺りまで宮の範囲であったと書かれている。

遥か大坂城

 ついでに、とは失礼であるが、斜向かいにある大阪歴史博物館を訪ねた。大阪市によるものであるが、江戸東京博物館(こちらは都による)のような趣旨なのであろう。南東に宮(址)を見下ろすという大胆な行為をさせていただいた。4分毎に暗幕(古いね、遮光カーテン=スクリーン)が下りてきて、宮の説明が映し出され、するすると幕が揚がり、宮が現われる、そういう仕掛けであったように思う。

[こちらは大坂城を見下ろす]

 あいにくの雨で見づらいし、腕が良くない。

大坂城を見下ろす

大極殿か?]

 例によって、よく分からない、憶えていない

難波宮本殿?

 この頃の大坂の町は難波宮辺りが海との切っ先であったと同館の資料で知った。そう考えると、難波宮といい、逢坂といい、そこに在って然るべきかと、遠い昔に有った大坂の海際に臨んだ気でいる。