人の記憶も七十五日未満  (一心寺にて)

 逢坂あたりの歩っつきは9月の28日であった。そのことにようやく気がついた。拙ブロ(逢坂;08年9月28日付)をみると、そうあって、もう三か月も経つと忘れてしまっている。日記も書かないし、スケジュール帳も持っていないわたくしだから、ハテいつ行ったのかしらと悩むことは多い。逢坂の訪ね日はいくつか撮ってきた携帯写真の日付で辛うじて確認できた。したがって、12月21日付の四天王寺周辺〜逢坂に記した日付も(こっそり)変えておいたΩ
 だから、であろう。一心寺に人が絶えず吸い込まれている様を目撃して、わたくしが訪ねたのは、同寺を含め各地でその日は秋のお彼岸あとの日曜日であったからである。厳密にいえばこのお寺でも20〜26日をそう定めていたが、やはり、平日よりも休日のほうが勝手が良い。(お参りの案内〜一心寺サイトより)。先週は何かの都合で参ることの叶わなかった方あるいは彼岸日を基点と考えれば、その前よりも後という方もいらっしゃるのであろうか、さまざまな事情もあり、この日(28日)が適日だったようである。実をいうと順番は一心寺が先で、そのまま駅方向へと思ったのであるが、四天王寺が背中をコツコツと突ついている気がして、たまらず、ひき返した。有本さんはたまたまであった。それほど、逢坂から眺めていて、大勢の方が一心寺へと進む様が気になって、わたくしも、と思った。さて、お寺は浄土宗であるが、受付(社務所)の方に訊くと宗派を問わず納骨を受け容れているということで、そんなことを知っても仕方がないことであるが、どういうわけか、そういう気分になった。

[仁王門]

一心寺モニュメント

 わたくしの中では少し奇異な山門をくぐると境内は何人(なにびと)でも受容できそうな広さがある。鳥羽伏見の役で歿した東軍志士たち及び戊辰の役会津藩士のお墓もある。奥に行くと、小西來山の墓が。
 「大坂を代表する談林派の俳人淡路町薬種商小西六左衛門家に生まれる。(承応3〜1654年)七つの頃から、談林派の西山宗因門下 前川由平に書画俳諧を学び、その後、宗因の直弟子となる。家業を弟に譲り、18歳で俳諧点者となった。」
 くすりの道修町資料館サイトにある來山来歴の一部である。道修町の南三つ目の通りに横たわっている淡路町も艸(クサカンムリ)の色香が残っている街である。前サイトに彼が詠んだ一心寺が在る。

 『時雨(しぐ)るるや時雨(しぐ)れぬ中の一心寺』

 同寺のサイト内(境内ガイド)にもあって、わたくしは見ていないのであるが境内にある來山句碑がそうなのであろうか。句碑の先(ガイドでは下側、方向で示せば北か、よく分からないが)に初代竹本大隅太夫の墓が。拙ブロ筋と通り08年10月20日付で塩野屋(小牧)藤次郎、通り名を長月庵十三(ちやうげつあんとざん)と謂う多才なお方がいらっしゃったと記した。そこに大隅太夫というのが十三に入門したとあるが、彼(か)の人が初代なのか、天保嘉永期に生きた人らしいから、おそらくそうなのであろう。(義太夫大鑑秋山清氏より)
 
[本堂手前の手水鉢?]

一心寺の水桶

[一心寺の一心様]

一心寺の頑張り屋さん

 お参りの方々をかきわけて入り口(山門)付近に戻り、お暇することに決めた。抑も抑も、わたくしがここにいる理由もないのだから。水桶(水盤)なのであろうか、手や口を浄める手水舎(てみず・ちょうずや)とは違うようであるが、それを一心に支えている頑張り屋さんに会釈して、境外へ。

 これから、天王寺阿部野橋駅へ向かっていきたい。