四天王寺周辺〜逢坂

 堺は一頭の鉄の町であるとともに、お香の町でも抜きんでている。梅田の或るところで小冊子を頂いてきて、歩きながら、読んでいた。「堺のお香」が特集記事であった。少し引用する。
 『お香が日本に初めてもたらされたのは、遥か遠い538年。百済より仏教が伝来したこの年、海を渡って来たとされている。(中略)南蛮貿易で栄えた堺は、日本が誇る線香発祥の地。(以下略)』(tabit〜ハービスPlaza&Plaza Ent Style Magazine 08-09Winterより)
 現在の「線」の形は16世紀に中国から伝来したと、堺線香工業協同組合のサイトにあり、以来、堺はお香の町としても一級であった。もともとは塊りというのか、三角錐のような形(コーン型というらしい)、あるいはお灸に近い状態、もしくは粒・粉状であった。(松栄堂という会社のサイトより)
 ただし、時代は移って、線香に限っていえば、都市化が進んだ堺や府内を避けて、今は、風光明媚で、よりセンシブルな淡路島(兵庫県)が主産地であるらしい。
[線香類の出荷]
都道府県/出荷量/出荷金額/事業所数
 全国/7,315,142kg/31,300百万円/99事業所
 兵庫 /3,359,197/13,265/31
 栃木 /896,338/3,522/15
 京都/877,777/6,221/4
 大阪 /645,336/2,976/16
 福岡/154,963/704/8
 和歌山/107,145/462/6
 岡山 /45,632/169/6
 沖縄/10,618/39/3
(平成18年工業統計表「品目編」データ/経済産業省より)

/~~~
△~~~

 以降は、すでに旧聞に属す。
 九月終わりは大阪にゐた(26〜29日、30日に離れる)。
四日目(29日)三日目(28日、12月25日こっそり修正)は空模様が事前の情報とまったく異なっていたので、予定を変えた。それが、四天王寺周辺である。ただし、この寺(歴史は古く、同寺のサイトによると6世紀末〜推古天皇元年〜593年、聖徳太子によるとある)には興味はなく、逢坂辺りを歩きたかった、それだけのことである。厩戸(太子)が仏教受容派である蘇我族の交渉役として、慎重派の物部守屋を説き伏すために逢ったとされる坂をのちにそう呼んだと謂われている。結果、物部氏は排され、蘇我氏が表舞台に上がるが、結局、乙巳(いっし)の変によって蘇我も斃れる。歴史の儚さである。
 逢坂において、ふたりの間でもって、どのような会話があったのだろうか。厩戸はいまさら仏教について、あれこれ説明するつもりはなかったであろう。だいいち、守屋に対してはことさら憎悪を感じることもなく、むしろ、親(近)しい情があったのかもしれない。懐からお香を取り出して、

 「守屋殿、いかがか」と、差し出した。

守屋も坂で厩戸と逢った時からその香りに気づいていて、

 「吾も」と、お香を取り出す。
(もちろん、厩戸もその香りに気づいていた)
 
 仏を受け容れることは叶わないものの、香は疾うに懐深くにあった。
 
 ふたりはどちらから上って(逢って)、そして下った(袂れた)のであろうか。

 逢坂の分水嶺近くに安居(やすい)神社がある。

安居神社]※逢坂に面している

安居

[由緒書き]

安居神社由緒

 このことはまったく偶然であるが、前日訪ねた道修町の「くすりの道修町資料館」脇にある少彦名神(すくなひこなのかみ)および前回ブロで記した萩原神社にも祀られている天神様の御名が。少し左に寄ると、真田幸村(信繁)の名がある。大阪夏の陣で歿した武将である。5月7日というのが命日だそうである。これも偶然であるがnhkの09年大河ドラマ直江兼続で、幸村とは縁の深い人物である。

[幸村戦歿の碑〜安居神社

真田

 興味はないものの寄ってみた。

四天王寺の大鳥居]

四天王寺鳥居

 さらに、四天王寺周辺、逢坂あたりを歩いてみたい。なお、住居表示では逢阪と記されている。

※拙ブロ;逢坂(08年9月28日付)