筋を違える

 大坂・船場界隈の町並みをみる限り、生業の関係はヨコ(東西)でつながっており、すなわち「通り」に沿っている。わたくしには、御堂筋とか、心斎橋筋の方が通りは良いけれども、江戸時代ではそれほど重要な位置にはなかったらしい。単純に記せば、家並が建ち、混んでいる「通り」に比べ、筋の方は比較的拡げやすく、今日の自動車中心社会の中で重用されているにすぎない。安政年間の『道修町の家並み地図』では確かに御堂スジは道修町(通り)に交叉する幾つもある枝線の一部に過ぎず、位置関係からいえばもうすぐ先に西横堀があるような中心を外れた「道」という程度でしかない。○※町という場合、たいていはヨコ、つまり、東西に走っているのだから、タテはどうでも良いのであった。
 なぜ、主横従縦なのか、地図を眺めていると、通り(横)の先、東側に答えがあった。大坂城である。通りはおしなべて城に向かって延びている。当時の商いというのは、現在と違って、町衆を相手にしていない(今もしていないか?)。また、大商いほど、お城つまりお国との釣り合いが良い。大店(おおだな)はたいていお城との商いで儲けていたともいわれる(今も?)。
 「本日凹刻までに、何がしかを何斤持って参れ」と急に謂われて、ご持参するには真っ直ぐな道の方が都合が良い。品物を用立てるにもあちこち伺うよりも道一本に集約されていた方が早い。そういうわけで、薬種なら道修町、絲(いとへん)なら本町辺りから、お城に届けるという仕組み(通り)が生まれた。もしかしたら、通りとつながる城前にはそれぞれ専門の窓口(役所)があったのかもしれない。先月、丹波国から道修町へ奉公に上がったばかりの丁稚(でっち)茂造(シゲどん)は普段からぼぉわっとしているものだから、その日も暖かい陽射しに惑わされて、いつの間にか通りを違(たが)え、手代の新吉から頼まれたお城への届け物を本町口に。
 差し出された役人は怪訝な表情で、茂造を一瞥し、

「此処は絲(イトヘン)であるぞ、艸(クサカンムリ)のことは一切係はらぬわ」と。

「何処へ、行けば、ええやろか」と、茂どん、ため口。

「知らぬ」

 縦割り行政(通りは横だけど)は、もうこの頃からあったということになる。

 茂どんがあきらめて帰ると、当の役人はすぐ隣にある薬種口(茂どんが行くべき場所)の役人に向かって、

 「いまどき、間抜けな奴やなぁ(笑)。今晩、一杯行きまひょかぁ〜」
 
 江戸についても確認しておこう。

 先日(27日)、両国にある江戸東京博物館を訪ねた。ひとつは、手許の招待券(ボストン美術館浮世絵名品展)が切れそうだったこと、そして、江戸の町をもう一度確かめておきたいという気もちもあった。ボストンの方はたいへんな賑わいで、歌川(安藤)広重の「両国花火」(名所江戸百景)にも劣らぬ混雑ぶりで、そして、常設展示側の模した日本橋は想外に空いていた。もっとも、入館したのが15時過ぎで、その頃に大型バスが何台も修学旅行らしき団体客を乗せて帰っていくところだったので、もう、同館のピークは過ぎていたということであろうか、また、あいにくの雨模様、平日という条件もあったのであろう。橋を渡ると、江戸の町を再現した立体模型があり、しばらく、留まった。他にも古地図などを確認しながら、結局、閉館(17時30分)で追い出されそうになった。
 立体も平面も視ているのは江戸城日本橋の関係だけである。予め、電子地図などでそこの点が気になっていたからである。結論を記せば、大坂のようにはいかないということである。
 視れば、一定の法則はあるようで、例えば、日本橋本町は薬種問屋の町である。ただし、南北(たて)でつながっている。したがって、江戸城には至っていない。まだ、さっぱり分からないが、点と線というよりも面という町の成り立ちになっていると考えることができるが、そのことは江戸期から現代という蓄積を加えてみないと答えは出てこない。
 茂どんになったつもりで、改めて江戸日本橋辺りを歩いてみようと思う。

 以上は拙ブロ、筋と通り、08年10月20日付の続きである。