本目(ほんもく)

 本牧通りは現在では陸の孤島のような謂い方をされることもあるが、70年代初頭(昭和で示すと40年代後半)まではハマの市電が走っていたという。今、みなとみらい21線は「元町・中華街」まで延びているが、計画では、そのまま、旧ハマ電のルートをということらしい。ただ、鉄道開通は功罪あって、つながることによる買物客の減少という罪は小さな商店街にとっては大きな痛手となる。わたくしは、通さない方に一票を投じる。その分、不便であるのかもしれないが、バス路線が充実しており、乗っていて、外の景色が楽しい。ハマの中心にはない絶景を本牧では目と肌で味わうことができる。(1960年当時の市電運行図横浜市電保存館」より)
 牧前の汐風に当たりながら、貨物線に迷い込んで、自分が迷った。神奈川臨海鉄道本牧線という。本牧線とあるから、他にも線があるのであろう。同社(神奈川臨海鉄道株式会社)のサイトを覗くと、浮島線、千鳥線、水江線というのが川崎市内に敷かれている。とはいえ、これだけ(4線)では到底機能するはずはなく、前者は根岸駅、後者は川崎貨物駅から全国へとコンテナウェブを拡げている。(路線図

[本牧線〜本牧埠頭駅方]
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[本牧線〜根岸駅方]
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 手持ちには出かける前に電子地図を印刷した首都高湾岸線までの地図しかなく、ここら辺り(本牧港)を当てずっぽうで歩いて(さ迷って)いる。本牧「魚」港を一回りして来た道を戻り、高速の手前を左折する辺りは「本牧ポートハイツ」といって社団法人横浜港湾福利厚生協会が68(昭和43)年より加盟組合員のための賃貸住宅を20年以上かけて拵えてきた。お世辞にも「現代的」とはいえない容を呈しているが、団地内にはマーケットや飲食店もあり、17棟(19号棟まであるが4と9は欠番となっている)、総戸数1,280戸の巨艦である。6畳、4.5畳、浴室、台所付きで家賃23,800円〜、共益費2,000円〜、一般者(非組合員)は入居できないけれども、安さもあり、本年2月28日に実施した空き室の応募は4倍であった(同社団サイトによる。ただし、04年に 独立行政法人雇用・能力開発機構から買い受けた19号棟は何故だか13,000円、共益費1 ,600円と破格、すでに入居していた方の既得価格なのであろうか)
 その裏手(海手)に日産自動車の輸出用埠頭があり、脇の道を並走する本牧貨物線を頼れば横浜本牧駅まで至ることはできるけれどもその先はもう助けがない。もちろん、湾岸線下の産業道路を素直に下れば、三渓園に至るし、さらに臨海鉄道に沿っていけば、根岸までは確実である。また、本牧通りを西に進めばかつて十二天にあったという本牧神社(旧十二天社)に、という選択肢もあったが、準備していた地図通りに(本牧)通りを北進し、目的地をめざした、と、書けない弱さがわたくしにはある。途中、イスパニア通りという名にすっかり惑わされてしまった。米軍からの返還後、住宅と商業施設などからなる新たな街づくりが展開されたのが今から20年ほど前のことである。先のポートハイツには悪いが、明らかにコッチの方が現代的であった。ただし、あったのであって、只今はそうでもない。その要因として、やはり交通の不便をあげるべきなのであろうが、この当時は、もう鉄道よりクルマの社会優先であったのであろうから、そればかりが往時の勢いを削(そ)いだ理由ではないのであろう。
 とにかく迷った、訪ねたい場所付近の地図は持参しているが、ここら辺りは「圏外」にあるので、どうにもならない。あとで確認してみたが、最初の一歩は確実に方向違いであった。本牧通りを逆走(歩)していた。
 鉄道はないけれどもバス路線はいくつもある、バス停をみつけて、待っていらっしゃる方に訪ね先を問うと、「大抵のはソッチヘ行くからね」と教えられて、数分もせずに来たバスに「乗っていきなさいよ」と。お礼を言って、やはり混んでいる車内、本牧ではバスが皆さんのアシである。
 本牧の地名には標題の「本目」という説がある。横浜市中区のサイトに「中区の町名とそのあゆみ」というのがあり、以下、本牧町の項を引用する。

 《『横浜文書』の「北条氏康禁制(天文14年・1545)」に「本牧郷」の記録がある。「本牧」は「本目」と書いた記録があり、地形状からも牧場との関係はないと考えられる。(出典「横浜の町名」平成8年12月横浜市市民局)》
 氏康殿とは、早雲の孫で、謙信、信玄らと同時代に生きた名将、智(知)将ともいわれるが、今はそれどころではない、なにしろ、迷っている最中なものだから。いずれ、小田原にでも行ってみたい。
 もともと、久良岐(くらき)郡に本牧本郷村があったという。同郡は4〜5世紀にあったとされる現在の横浜市南部一帯を含む広い地域をさしている。⇒拙ブロ[橋(別の)および派大岡川など(06年4月27日付]
 この本牧本牧郷が同一なのかどうかは分からないが、本牧が冠されていることから、先(大字)に本牧があって、次に小字としての本郷があったのかもしれない。本牧が本目だとしたら、「目」、つまり、(本当に)重要な場所というほどの意味があるのだろうか。人の体の中で、目はもっとも重要な部位のひとつであるということに由来するのであろう。おそらく、先の中区サイトにあるように牧場との関係はなかったのかもしれないが、海の牧(漁場)であったことには違いない。東京湾という絶好の牧に小舟を巧みに手繰って、アナゴでも獲っていたのであろうか、あるいは、湾外へと飛び出して、北方漁業をしていたのかもしれない。そういう(海人からの)目からは本牧(本目)が中心であって、本郷などというのは辺鄙としか感じられなかったのかもしれない。その雰囲気をあらわしている文章を紹介する。
 本牧福祉のまちづくり協議会という団体のサイトがあって、そこに本牧ついての記述があり、興味深く読ませていただいている。「本牧の歴史紹介」というコーナーの一部を引用する。
 《本牧は昭和6年町名・地番の変更があり、それまで本牧○○番地と言われていたのが町名がつけられる様になりました。本牧で町のつくところは本牧元町、本牧大里町、本郷町とありますが、本牧大里町は大谷戸と下里(さがり)を合わせて作られた地名ですし、本郷町は昔、本牧一帯を本牧本郷村と呼んでいたその一部が残ったのでしょう。ただ本牧のはずれにありとても中心地とは言えないのになぜこのような地名が付いたのか不明です。》(本牧の歴史その1
 本牧(本目)人の誇りが伝わってもくる。

 司馬遼太郎氏の《街道をゆく》『本郷界隈』〜『縄文から弥生へ」の中に
 《上野の不忍池は、海の切れっぱしだっただろう。(少し略)その”海”から、本郷台地をながめてみると、堂々たる陸地である。(残りは略)》とある。測ってみると不忍池(弁天堂)と本郷(三四郎池)は1キロ弱である。
南下して本牧三渓園)から本郷町(最中の喜月堂辺り)は2キロ弱、上野の衆が本郷衆をどう思っていたかは分からないけれども、本郷の在は存外、コッチが中心と、やはり思っていたのであろう。陸(おか)人からみると、本牧における本郷というのも、そういう自負の上に立っていると妄(みだ)すこともできる。
 
 蔵とラーメンで良く知られている福島県の喜多方へは結局行くことがなかったけれども、ここの名づけは会津の北方(きたかた)ということらしい。(同市サイトより〜喜多方市の紹介
 きたがた(北方)というのも、同じのようで、「本郷」からみた方向である。(↑中区の町名とそのあゆみ〜北方町
 だいぶ、迷っている。続きは、いずれということで、本日は、ほかのことにも想いを馳せたい。
 ※うっかりして、8月10日付でアップしていた(この項の書き始め)。改めて、今朝付(8月25日)とする。