南百

 越谷レイクタウン駅は本年3月にJR「武蔵野線」南越谷〜吉川駅間にできたばかりで、現状ではほとんど人の乗り降りがない。もっとも数ヶ月もすれば眼前で工事中の商業施設に大勢の人が集まり、この駅も賑わうのであろう。ぽつんと色鮮やかな幼稚園の建物がもう出来上がっていて、近づいてみると、見学会開催というチラシが貼ってあって、ニュータウンに若い家族らが移り住んでくる様子がなんとなく浮かんでくる。一方、時々通り過ぎる常磐線金町駅を東京寄りに、新宿(にいじゅく)地区の再開発というのがあって、そこには数ヶ月前から、特別養護老人ホームの工事が始まっていて、新たな街づくりにも、老若があるのだろうねと、幼稚園の前を過ぎながら、吉川に向かって歩いた。
 実をいうと広長大なSCを眺めながら、途中、人口池をみて、北上していると、もう、もと降りた駅に戻る気も起こらないで、それほど巨大な複合店舗群が開業した折には、皆、SC内に移動手段として、鉄道がほしいと思ってしまう「大きさ」であって、そのまま、次駅に向かった方が「良い」と判断した。
 もちろん、そのようなことはなく、戻った方がずっと楽である。
 少し、川を眺めたかった。
 ここでは、中川である。この川は下ると、途中、葛飾高砂辺りで西側に折れて、現・荒川に注いでいる。真っ直ぐは、というと、新中川となって、瑞江(みずえ〜水辺らしい名前であるが、実際は瑞穂村と一之江村があわさって、一文字づつ取ったらしい、とはいえ二村ともに、水っぽい名ではある)辺りで旧江戸川に呑まれたのち、ディズニーを左岸に見ながら東京湾に注いでいる。
 こっちの川は、新(現)だ、旧(元、古)だと、複雑である。西はというと、多摩川を頭の中に流しておけば、おおかたの感覚がつかめる。しかし、東は一筋かわにはゆかない。河の数のことを想っているのではない、その成り立ちである。「元凶」はそもそも「旧」利根川江戸湾に注いでいたことにあるようだ。国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所のサイトをみると、その様がよく分かる。千年前の江戸(もちろん、その頃江戸らしい町の成りはなかったけれども)には北関東辺りから流れてくる大水(河水)を一気に引き受けており、そのことが、水運を盛んにしたという側面もあるが、しばしば大水は暴れ、氾濫(洪水)を招いていたという面倒もあった。江戸に入った家康はまず、この煩わしさを払うため、利根川をより東に追いやった、同時に荒川(名前からも察することができるように、この川も厄介であったらしい)を西にすげ替えた。この河川改修工事を利根川の東遷、荒川の西遷という。

1000年前の江戸](江戸川河川事務所)

[こちらは、現在の川の容

 今、吉川橋のたもとに立っている。南に眼を向けると、中川が流れ、西をふり返ると、元荒川が越谷市街地を経て、熊谷市付近まで現在の荒川と並流しながら、とうとう合わさることなく、いつのまにか閉じている。西遷による仕業である。一方、(東遷の影響を受けた)中川はというと、ここより少し北にある増森(越谷市)辺りで古(ふる)利根川と岐かれ、それぞれ別々の人生を歩んでいる。
 ただし、わたくしは、今、川の流れを下から上に向かって書いているので、実際には別々の人生がドコカで出逢うとしたほうが正確なのかもしれない。

[吉川橋から中川下流を望む〜吉越橋が写っている]

吉川橋から

[中川上流〜古利根川との分流方面をながめる]※元荒川は画像の左枠外を流れる

吉川橋2画像0035

 ふと、お社が気になった。銘もなく、その由来についてはまったく分からないまま、しばらく、とどまっていた。石彫りの「守」たちも健在であったが、祠は乱れ、お賽銭箱には小銭だけが残されたままである。

[打ち棄てられた御社(やしろ)]

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[打ち棄てられた御社を未だにお守リしている?]

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[あれれ?祠の中は]

うち捨て3画像0032

[もしかしたら、まだ、投げ込む人がいるのであろうか?]

うち捨て2画像0033

[ここら辺りにも何かあったのであろうか?]

うち捨てられた1画像0034

 戻って、電子地図をみると、「南百不動尊」とあった。

 南百は、なんど、と読む。

 先ほど通り過ぎてきた人工池の名を「大相模調整池」というが、この辺り一帯をオオサガミ〜と謂ったらしい。越谷市の広報誌08年7月号にキッズの頁があって、同市の地名についての記述がある。以下、引用する。
《〜大相模地区〜
 大相模村は、明治22年、西方・東方・見田方・南百・別府・四条・千疋の7つの村がくっついてできた村で、昔、西方・東方・見田方などが大相模郷とよばれていたからこの村の名前になったんだ。大相模という地名は、昔、あるお坊さんが相模の国(今の神奈川県)の大山で、1本のケヤキから2体の不動尊をつくり、1体を今の大相模に置き、「大の相模」とよばれ、大相模になったみたいだよ。》越谷市広報誌08年7月号より
 この不動尊のことなのだろうか、それについては、さっぱり分からない。橋にたどり着く前に住宅街の真ん中に「謎の御社」もあって、こちらについても、さっぱりで、いずれ、二たび、訪ねてみようということしか、今は書くことができない。

[謎の御社]

謎のお社3画像0027

 さて、南百の「ど(百)」である。わたくしが育った田舎に百々という場所があって、これは、「どうどう」と呼んでいた。太平洋を臨んでおり、もう、おそらく、これから旧盆にかけて、波の高さが増すような処で、轟音が響くような荒々しさでもって、わたくしどもは決して、近づかないよう言われていた(いわゆる土用波)。この「轟」と「百」はほぼ同じ意味らしい。
 どど、あるいは、どどっどが、前記、轟や百のもととなった擬音であると、「災害伝承情報データベース」というサイトにあった。波濤(とう)、これなども、どどど、であるかもしれない。江戸以前、この辺り(南百)は荒川と利根川がぶつかる音が一帯を支配し、時には、水の神が暴れたのであろう、それを鎮める守が、今は打ち棄てられた南百不動尊、と、結論づけるにはまだ早いが、道路の向こう側、元荒川脇には水神社もあって、当時の護りは万全であったはずである。今はといえば、その限りではない気もする。
 南については、素直に越谷市あるいは大相模郷の南と考えても良いのであろうか、それにしては、南百は東端に近すぎる気がして、むしろ、南は「何」(なん〜不特定をあらわす〜得体の知れない)あるいは「難」(例えば、御し難き、のような)文字の方が分かりやすい。
 橋を渡ると吉川で、なまずが有名らしい。駅に向かうすがら何軒かそういう生業の佇まい(お店)があるが、すべて、「うなぎ・なまず」とあって、その逆にはなっていないところが、寂しい気もする。といえ、わたくしも、なまずを食べてみようとは思わなかったのだから、どちらでもよいのであるが、もう少し、暑気が収まった頃、再訪がてら、ナマズにも挑戦してみようかなとも想っている。
 その前に土用の丑もある。一年以上も前に求めた中国産ウナギを冷凍したままなので、庫内からとりだして、カリカリになるまで焼いてみることにしよう。
 暑中お見舞い申し上げます。