浅草三筋町

 どこまで、書いたのであろうか。三筋(みすじ)までかと、一週間ほど前の拙ブロを確認した。「是」である。三筋の由来は町内に三本(筋)の道が走っていた、という、あまり、面白くないことらしいが(週刊新潮コラム「タワークレーン大成建設株式会社より)、同サイトに山形県上ノ山(かみのやま)出身の斎藤茂吉氏が上京し(明治29=1896年、氏、数え15の時)、「浅草区東三筋町54番地」で医業を営んでいた斎藤家へ養子に入ったとある。そういえば、茂吉氏の碑をみかけた記憶もあるが、ほとんど、忘れている。「三筋町界隈」(青空文庫)は茂吉氏の随筆で、その中に「蔵前の煙突」という箇所がある。方向音痴(これは、わたくしのこと)にとって、どこからも視認できる存在は、それが煙突であろうと、建物であろうと、ありがたいことであるが、氏にとっても「上京したての少年にとってはこの煙突はただ突立っている無生物ではなかったようである。」と、その存在にありがたみを感じていらしたようである。もちろん、氏が方向音痴であったかどうかは分からない。ただし、都に上りたての「小僧」に共通している不案内は昔も今も同じなのであろう、自分が戻るべき場所を確かめながら、ヨチヨチと、這い這いしながら、冒険をする、そういうことの繰り返しでもって、徐々に道なり、街を覚えていく。だいいち、その頃は、自分の塒(ねぐら)すら、どこにあるのか、把握していなかった。もっとも、今も不確かではあるけれども。
 
 蔵前の煙突というのは、蔵前(浅草)発電所のことであろうか。「蔵前タウンガイド」というサイトに紹介されていて、東京電力の前身でもある東京電燈株式会社が建てた。現在の蔵前変電所、すなわち、旧国技館付近にある。茂吉氏の記憶(上京された頃)と同社の「煙突」築造の時間が一致している。

蔵前の煙突](蔵前タウンガイドより)
 
 ちょうど、今頃は、今秋の実りを期待しながら、農家の方々が、種を、苗を、土に託しているのであろうか、昔なら、お牛さんなど、今なら、トラクターか、春季発動(機)である。同じように、「小僧」には春が芽生える時季でもある。それを、茂吉氏は、春機発動期と著した。『三筋町界隈』の終わりは、そういう軽口でもって、〆られている。以下、青空文庫より、引用する。

《まえにもちょっと触れたが、上京した時私の春機は目ざめかかっていていまだ目ざめてはいなかった。今は既に七十の齢(よわい)を幾つか越したが、やをという女中がいる。私の上京当時はまだ三十幾つかであっただろう。「東京ではお餅のことをオカチンといいます」と私に教えた女中である。その女中が私を、ある夜銭湯に連れて行った。そうすると浴場には皆女ばかりいる。年寄りもいるけれども、綺麗(きれい)な娘が沢山にいる。私は故知らず胸の躍るような気持になったようにもおぼえているが、実際はまだそうではなかったかも知れない。女ばかりだとおもったのはこれは女湯であった。後でそのことが分かり、女中は母に叱(しか)られて私は二たび女湯に入ることが出来ずにしまった。私はただ一度の女湯入りを追憶して愛惜(あいせき)したこともある。今度もこの随筆から棄(す)てようか棄てまいかと迷ったが、棄てるには惜しい甘味がいまだ残っている。》

 春気である。

参照;齋藤茂吉氏の「三年」という小品文(青空文庫)にふれて。
 拙ブロ「神町へ(2)〜若木(おさなぎ)山」(08年2月3日付)
 拙ブロ「蔵前四丁目・タイガービル」(08年4月8日付)※蔵前国技館