幽霊坂(淡路町とぼとほ短記)

 所用でもって、ひさかたぶりに、淡路町(あわじ・ちょう)界隈を歩いた。所用先とは少し離れているが、新御茶ノ水の聖橋方向口を降りることに決めた。これもまた、久方のニコライ堂を眺めに行くためである。思いのほか、そういう方(かた)たちが多くいらして、中には、本格的なカメラを向けている人もいて、もちろん、個人的に使用する以外許されていないけれども、ついでに、わたくしも、携帯で。同堂については、いまさら、記すこともないので、日本正教会のサイトでどうぞ。ひとつだけ、ふれておくと、拙ブロ「黒岩比佐子(くろいわ・ひさこ)さん」(08年2月1日付)で、紹介した黒岩比佐子さんの「日露戦争 勝利のあとの誤算」の中に、「群集」による東京中の焼打ち「騒動」で、ニコライ堂も当然、(欲求不満の)標的となり、狙われることになるが、何故か、難を逃れているとある。警護に当たった軍人に対する配意と同著にはある。その後、ロシヤは暗い70年間を含め、世界と「敵対」するが、その間、ニコライ堂が襲われたという話は聞かないし、旧ソヴィエト大使館のような堅牢な護りはなかったように思う。政教分離と、いえば、それで済むことではあるが、ろくに、宗教を解さない、わたくしどもが、このドームを「護って」かつ「親しんでいる」(この日のように、訪ねる方が絶えない)ことに、先の焼打ちのことといい、不思議な一件である。

ニコライ堂
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 所用を終え、少し、まわり道をして、幽霊坂をのぼった。意味はない。ニコライ堂前を紅梅坂といって、その名のとおり勾配はきついが、幽霊坂はもう少しきつく、しかも寂しい。そういう雰囲気もあって、その名が付けられたようである。もともと、双つの坂は結ばれていて、のちに、本郷通りが縁を割いたと、幽霊坂を案内する千代田区の標識にあった。

ニコライ堂・弐(ニ)]
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幽霊坂
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幽霊坂の案内識]
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 幽霊坂のある神田淡路町の名は、神田川沿いにあった鈴木淡路守の屋敷に由来するとあるが、これが誰かが分からない。三河由縁の旗本家であるのか?確かに、鈴木は多い(全国的に多いともいえるけど)。今のところ、とっかかりが淡い。
 以上を含めた坂の由来については千代田区のサイトにある「千代田区内の坂」で紹介されており、49.淡路坂、50.紅梅坂、51.幽霊坂をみていただきたい(もちろん、ほかの坂も、どうぞ)。
 この辺りは坂も多いが、橋も多い。金井湛(しずか)はアズマ先生の居宅(神田小川町淡路町の南および西隣))から進文学社・舎(本郷)に通うが、坂をのぼり、橋を渡りながら、何を想っていたのであろうか。(拙ブロ「あまねく」08年1月13日付)

 時間をみつけて、もう一度、このあたりをとぼゝ、と、歩いてみたい。