黄金・大金(小金城趾あたり)

 所用もあり、少し、足を延ばした。常磐線「馬橋」駅より総武流山電鉄に乗り換えて、二つ目の「小金城趾」(こがねじょうし)駅まで。二つ目といっても、残りは終着の「流山」駅を含んでも三つしかない(合計6駅)。前々から、訪ねてみたいという気もちがあって、ようやく、実現した。さいわい、陽気もよかったので、北小金駅常磐線)まで、ぷらぽらと、歩いてみた。城趾駅付近を「大金平」(おおがねだいら)という。小金より一頭上の地名づけであって、このあたりに、金に価する、例えば鉱物であるとか、あるいは、水とか塩とか、そういう、その時代にとっての黄金が満ちていたのであろうかと、勝手に想像したが、あとで地図でもって周りをみると、大谷口(お城趾のある付近)、小金(北小金駅南側、旧水戸街道小金宿あたり)および平賀(殿平賀、久保平賀など)に囲まれた一帯であり、その一文字づつを頂戴して、附けたのかもしれないと、思い直した。ただし、本当のところは分からない。
[小金城趾駅]※城趾までは徒歩で10分ぐらい。
小金城趾駅画像0013

 城趾であるので、今は、公園になっていて、それらしき気配はどこにもない。わずかながら、敵の侵入を防ぐために造られた畝堀(うねほり)の名残りがある程度である。千葉氏の流れとされる高城(たかぎ)氏の居城である。訪ねてみて、その小ささに高城殿は貧乏だったのかと、これまた勝手な想像をしたが、公園(城趾)内にある案内板に現在(といっても1962=昭和37年当時)の航空地図に往時の城勢が重ねられていて、それによると、ずいぶんと大きな、立派な「なり」をしていたらしい。城というのは正確ではなく、館あるいは取手(砦)とあらわしたほうが良いのかもしれないが、いずれにしても、戦いの最前線という緊張感のうえで築かれたシロではないようで、積まれた土塁も敵から防ぐという意図よりも、周囲から身を隠す(お風呂場を簾で遮蔽するような)ほどの緩さであったらしい。秀吉による小田原攻め(1590=天正18年)の際、(後)北条氏についた高城氏は崩壊、小金城は、のちに、家康の五男、武田信吉(のぶよし)が佐倉を経て、水戸に移るまで、城主として居たが、その後、廃された。信吉は短命(22歳に逝去)であったが、もともと、病弱であったためか、家康も心に留めていたのであろう、ほとんど実勢のない小金城を与え、佐倉、そして、水戸へと。お蔭(実際は関が原における西軍であったため、あるいは、どっち付かず)でもって、水戸の佐竹氏は久保田(秋田)へと移封された。また、佐竹氏はというと、小金城(高城氏)が断たれるもととなった小田原攻めの功でもって、水戸(常陸)に封じているのだから、見方によっては、小金城は興味深い、おシロなのである。
[畝掘:ただし、関東ローム層の泥土が歩兵の足を滑りやすくしていたとあった]
小金城画像0016

 房総半島一帯は古くから、馬の放牧地(牧〜まき)でもあったらしい。江戸に入って、幕府は次々と各地の牧を「国営化」した(「官牧〜かんぼく・かんもく?)。小金城趾周辺も広大な牧であって、(まんま)「小金牧」といわれていた。上野、中野、下野、高田台、そして、今もその名の印西(牧の原)があって、小金五牧ともいわれた。軍用馬の育成が主だっており、そのせいなのか、現在も千葉県は乗用馬の飼養数では北海道に次ぎ(乗用馬の飼養状況〜社団法人日本馬事協会)、乗馬クラブも多く、ケイバ場もある。所用は東武野田線「豊四季」駅近くにあったが、このなんとも「モダーン」な名づけは明治期にさかのぼる。小金牧は、佐倉牧(成田市周辺)と併わせ、「民活」が導入され、墾(やぶ)られ、農地化、宅地化され、只今の姿となっている。開墾の順番が「入植者」の願いも篭めて地名に照らされている(11以降は・・・)。成田市教育委員会教育指導課の「十余三の開墾のお話 とよみのかいこんのおはなし」から引用すると、
1.初富村(はつとみむら)→鎌ケ谷市 (かまがやし)
2.二和村(ふたわむら)→船橋市 (ふなばしし)
3.三咲村(みさきむら)→船橋市 (ふなばしし)   
4.豊四季村(とよしきむら)→柏市 (かしわし)
5.五香村(ごこうむら)→松戸市 (まつどし)
6.六実村(むつみむら)→松戸市 (まつどし)
7.七栄村(ななえむら)→富里町 (とみさとまち)※現在は富里市
8.八街村(やちまたむら)→八街市(やちまたし)
9.九美上村(くみあげむら)→佐原市(さわらし)※現在は香取市
10.十倉村(とくらむら)→富里町 (とみさとまち)
11.十余一村(とよひとむら)→臼井町(うすいまち)※現在は佐倉市
12.十余二村(とよふたむら)→柏市 (かしわし)
13.十余三村(とよみむら)→成田市 (なりたし)
 である。一戸、二戸、三戸・・・は、南部藩の「柵」をもとにして附された地名であるが、これに比して、やはり、明治の人は、名づけ上手である。
 帰り途、まだ、莟(つぼみ)の梅を観た。慶林寺といって、高城氏ゆかりとあった。
慶林寺梅2画像0017

 梅の莟は今頃、もう、殻を墾って、美事に映えているのであろうか。(21日・訪)