宝の暦

 宝暦というのは、1751〜63年までの13年間である(※51年は寛延4年と重なり、64年は途中まで宝暦14年ののち、明和元年となる)。前回でふれた最上徳内は宝暦5(1755)年に羽州・村山・楯岡に生まれた(54年という説もある)。宝暦生まれをざっと挙げてみた。
・・・元(寛延4)/上杉鷹山、笠森お仙(おせん)、大黒屋光太夫
・・・7/大槻玄沢
・・・8/松平定信良寛
・・10/葛飾北斎華岡青洲
・・13/小林一茶、谷文晁
 当然、同時代に生きているのだから、関係(つながり)を見ることができる。例えば、松平定信(8代将軍吉宗の孫)は田沼意次によって始められた蝦夷開発を止め、いちじ、徳内は立場を失う。定信は有名な寛政の改革(倹約令)を推し進め、名君といわれた上杉鷹山米沢藩にあらわれる。ついでに記せば、定信は徳内の生地楯岡を治めていた白河藩主に就いている。1783(天明3)年のことである。その2年前に徳内は江戸に出ている。大黒屋光太夫は漂流のうえ、ペテルブルクでエカチェリーナ2世と謁見するという希有な体験をしており、のちの対ロシヤに関わざるを得なかった。蘭学者大槻玄沢も光太夫から数々を学んでいる。大槻は杉田玄白前野良沢の弟子で、それぞれ一字を戴いた。玄白、良沢はシーボルトらを訪ねに、しばしば長崎屋に詣でていた、おそらく、大槻も随伴していただろうから、徳内とすれ違っていた可能性もおおいにある。華岡青洲は外科医、近代において初めて麻酔を用いた手術を行なっている。
 笠森お仙は谷中にあった水茶屋「鍵屋」の売れっ娘で、絵師・鈴木春信が好んで描いていたらしい。
絵師・鈴木春信による(お仙像)](実在の笠森お仙2/おせん・きくち正太ファンサイトより)
※若い衆が吸っているキセルに用いる葉を徳内は売って歩いていた。
 一茶と良寛北斎に文晁、なんとなく、なんとなくである。
 かなり、恣意的であるが、宝暦生まれの人々である。そして、もう一人、徳内とほぼ同い年の菅江真澄(4年生まれ)である。徳内が27歳で東北から江戸に向かったのに対し、真澄は30歳(29歳説もある)の時に、それが最期の旅立ちともなる東北へと(最終的には秋田)。二人は同じ時代にありながら、お互いを知る由もなかったのであろうか。北海道知内(しりうち)町に雷公神社がある。そこをふたりが訪ねているという記述が見つかった(雷公神社〜BEST! from 北海道)。もちろん、別々にではあると思う。徳内はというと、定信による蝦夷開発中止の後も、蝦夷地に出向いており、生涯で九度といわれている。真澄は1788(天明8)〜92年に蝦夷地(松前周辺)を訪問している。真澄が在蝦夷の5年間のうち、徳内は3度目の蝦夷が89年(7月松前入り、9月江戸へ)、4度目の蝦夷が91年(1月松前入り、探検後、11月に松前に戻り、江戸へ)、そして5度目の蝦夷では92年2月に松前入り、同10月初に松前戻りとある。真澄はというと、91年に長万部、有珠岳などを歩き、92年1月に松前福山に戻っている。そして、10月に大間(青森)へ渡る。ふたりが出会うには、89年および92年に機会はあった。ただ、89年は同行した青島俊蔵とともに幕府から嫌疑をかけられ、翌年、徳内は入牢している(青島は獄死、徳内は師である本多利明らの尽力もあり、釈放された)ことから、接点は、92(寛政4)年以外にない。この9か月のどこかで、会うことは歴史的にはないとしても、物理的には可能である。9月に、ラクスマン事件(ロシア使節ラクスマン根室に上陸)が起きているので、ゆっくり会うとなれば、年初め、危急で会わざるを得ないとすれば、やはり、9月である。もちろん、そういう史実はない。
※徳内の行動⇒「行動の人・最上徳内、城山来る。」(屋根のない博物館ホームページより)
※真澄の行動⇒「菅江真澄」(田口昌樹氏著〜秋田文化出版社より)
[参考]
菅江真澄著:「蝦夷喧辞辨」(エミシ・ノ・サエギ)北大附属図書館北方資料室(これも、達筆なので・・・)

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 真澄や徳内が生まれた宝暦4〜5年にかけて、宝暦治水事件といわれる幕府によって鹿児島藩に架せられた木曽三川治水工事にまつわる悲劇が起きている。拙ブロ「琉球留記?琉球が織りなす」(07年8月17日付)で真玉橋(まだんばし)の『七色ムーティー(元結)』という人柱伝説に類似した例として、岐阜県海津市平田町の若宮さまを紹介したが、長良川はじめ木曽三川(他に、揖斐川木曽川)の氾濫を食い止めるべき努めたのが鹿児島(薩摩)藩士らであり、多くの犠牲も負い、今でも治水神社に祀られているが、この時の総指揮(奉行)が平田靱負(ひらた ゆきえ)といって、上記、町名のもととなっていると記した。靱負は部下たちの殉死(病死、事故死など)を受けて、工事終了後に自らを絶つ。もともと、幕府の要求は無茶であった。藩士の気もちとしては、討幕心が支配していたけれども、それを抑えて、なお、自ら、実務に当たったのが、靱負(のちに正輔と改名)である。(幕府への)体裁を整えたうえで、部下の(藩への)不信・不満および(工事による)犠牲を自らの死でもって、清算した。そういう人物である。
 一と半世紀ほど時を戻す。 
 鹿児島藩琉球侵攻については、もう、何度も記している。家康の言質を得た島津は1609(慶長14)年、奄美、そして、琉球へと進み、ついには、首里城を落とす。尚寧(しょうねい)王はじめ重役は、鹿児島及び江戸に引き回されたことも書いた。そして、唯ひとり、薩摩による琉球支配を認めなかったのが謝名親方(じゃな・うぇーかた)であり、刑を処された。
 平田増宗(ますむね)は鹿児島藩副官として、派遣されている。
 当時の島津はお世継ぎ争いの渦中にあって、増宗は帰国後(琉球侵攻後)、謀叛の罪で藩主家久によって処(暗殺)され、お家断絶となっている。傍系が継いで、靱負が生まれている。(平田氏系図⇒「秘武道の世界」より)
 昨年10月に沖縄を訪ねた。その際、久米、若狭あたりを二度歩き、そのこと(謝名親方)について、考えていて、以上(平田家)のことをあわせていた。それが、徳内に至るとは思わなかったけれども、すこし、想いを、琉球に、よせてみたい。(次回以降、ぽつぼつと・・・)