むらやま・楯岡(たておか)貮〜エドへ、エゾへ

 甑岳(こしきだけ)は村山平野を一望できるとある。※甑岳からの眺望おいら的素浪人通信より)もちろん、登ったことがないのだから、想像でしかないけれども、より以遠を望むことも可能であったのであろう。元吉(げんきち)はここにしばしば登り、江戸へ行き、侍(さむらい)になりたいと思っていたそうである。おそらく、ほかに誰もいないことを確認して、大声で叫んでいたのかもしれない。その想い(叫び)は天に通じて、元吉(のちに最上徳内;もがみ・とくない、を名乗る)は江戸に居た。ただし、侍といっても、江戸中期においては戦いを職とする武士という意味あいはほとんど失われており、今でいえば、お役人あるいは公務員のような、近侍の人(侍人じじん、侍士じし)だったのであろう。実際、徳内は56歳の時、大奥の庶務係に就いていると、訪れた最上徳内記念館の年譜にもあった。しかし、本来の目的については、諸説あって、はっきりしないけれども、楯岡などという狭苦しい、貧しい田舎から抜け出て、より広い江戸という「世界」に飛び込みたいという気もちが、甑岳からの遠景を眺めることで、次第に膨脹していったのであるまいか。また、幼少時代の元吉には、すでに、その潜在的な能力と環境が存在していた。
 徳内は楯岡村の貧しい農家に生まれた。今、市役所の隣に、徳内の業績を讃えた記念館がある。展示のひとつに家系譜があり、近江高宮氏から創(はじ)まっている。ただし、直接の関係はなさそうで、近江の国、高宮のご城下にいたということのようである。そこから、加賀金沢に移り、徳内の三代前の時代に楯岡に流れている。祖父は初代太右衛門太郎兵衛で、その三男(?)甚兵衛の子が元吉(徳内)である。類縁は高宮姓を名乗ったという記述があるが、おそらく、もといた近江高宮氏にちなんでのことであろう。琵琶湖を中心とした戦乱の中で、当時、勢いを増していたのは織田信長である。高宮氏は時流(信長流)に巧く乗ることができず、力は衰える一方で、末裔は、大坂夏の陣で西側についたともされ、断絶している。(「高宮氏播磨屋より)
 元吉が生まれたのは1755(宝暦5)年(54年という説もある)であり、信長も夏の陣も、もう過去の話であり、その頃は、祖父あたりが楯岡に移ろうかという時期である。1838(天保9)年というから、徳内の没2年後の楯岡村は阿部氏白河藩10万石のご領地であり、村の石高(村高)は6,500石、うち町(楯岡宿場町内)の分は3,590石、戸数644、民1,843人とある(同記念館展示資料から)。一石=一人(一年におおよそ一人が一石を食す)と考えると、多いような気もするが、五公(年貢あるいは地主への配分)五民とすれば、やや苦しいことになる。もちろん、仮定の話であるので、徳内の実際の暮らしぶりを反映しているとはいえないが、徳内の生家、また、楯岡村のすべてが、いくばくかの農作とタバコ葉の栽培で細々と「くらし」を営んでいたという方が実態に近い気がする。わたくしの育った町でも以前はタバコ農家が何軒かあって、それは専業ではなく、農作との兼業が多かったけれども、敷地内にタバコ専用の作業場があり、そこは、乾燥・醗酵させた葉を燻すのが主な用途であったように思う。小学生の、わたくしは、友人らと、悪戯でもって、燻す前の葉を巻いて、火を点けたが、ろくに煙も出ず、だいいち、タバコの味など知らないから、ただ、不味いと感じるしかなかった記憶が今でもある(そのくせ、今は吸っているが)。徳内は燻した葉を器用に刻んで(切って)、行商に出かけたという。東北一帯を歩いたともあるから、当然、それより間近の大石田や谷地村へは足繁く通ったのであろう。前者は最上川が集落に最接近する地でもあり、舟運業で栄えた町である。後者も、現在は河北町(かほくちょう)といって、紅花「貿易」で、やはり繁栄した。大石田には1689(元禄2)年に松尾芭蕉も訪ねており、すでに、最上川は諸国に知られていた、いわば観光地でもあったのであろう。・・・さみだれをあつめてすゞしもがみ川
 10代初め頃の徳内にとって、行商は「知」の世界を広める術として恰好であった。タバコを売るには、商人らが集まりそうな宿やお茶屋に行けば良い、また、相手はたいてい大人であるから、徳内の知らないことを教えてくれたし、生来、好奇心が強かっただろう徳内も執(しつ)こく大人に訊いて回ったのであろうか。
「親想いの、賢い子だこと」と、訊かれた旅人、商人も、時間が許す限り、自慢話も含めて、貧しい家を援(たす)けるために行商をし、眼を見開いて、人の話を傾聴し、呑みこみの速い元吉少年には、なんでも話したのかもしれない。何人かは、お得意さんがいて、その度に、京かどこかから荷の中に漢籍か算術書の類を携えて、徳内への褒美としていたのかもしれない。このようにして、徳内は自らの「侍」になるための知を蓄積していったのであろう。のちに、最上を名乗るが、その理由として、楯山にあった楯岡城主「最上」氏にちなんだともいわれる(同城は1622=元和8年に廃されている)が、甑岳と最上川が徳内のそばになかったら、おそらく、貧農の子として、一生を終えているのではないかという、無茶な想像が、わたくしの中にあり、甑岳により志の高さを積み、そして、最上川により、知の広さを会得した徳内(元吉)が、特に、後者への想いから最上を名乗った、か、あるいは、他人様から、最上で良いのではないかと、そう呼ばれても、あえて、そういう気もち(最上川への)があったので、拒まずに、通り名となった、と、勝手に想像している。徳内・・・これについては、考えもしていないが。
最上徳内像](村上市HPより)
最上徳内記念館]
徳内記念館画像0005

村山駅の徳内幟]
徳内セール像0002

 最上徳内は影の人でもある。
 例えば、日本各地を測量した人物・・・あ、伊能忠敬ね、北方を探検した人物・・・それは、間宮林蔵だわね、と、必ず、先に名前が挙げられ、徳内が最初ということはまずないのである。択捉島に上陸するが、この時も近藤重蔵の名が先んじる。そういうお方なのだと思えば何ということはないが、どうも(影が)薄い。それが、東北の寒村生まれの特徴(良さ)なのであろうか。
 今、わたくしが想っていることは、徳内の「覇気」についてである。徳内は27歳で江戸に出る。当時の平均寿命というのは50歳前後であったが、50歳前後の人の余命は15年前後であったらしいので、仮に65歳とすれば、人生2/5でのことである。今でいえば、30歳を過ぎた頃に、東京へという感覚であり、情報が少ないことを考えれば、ひょっとしたら、不惑を越えてのことという冒険だったのかもしれない。(ただ、徳内は長命の部類で、82歳まで生きた)
 もっとも、同郷(今の山形市)で10ばかり年上の会田安明も23歳で江戸に出ているといるというから、それが当たり前で、わたくしだったら、そうはできない、というだけのことかもしれない。覇気がない、そういうことであるけれども、徳内に対しては、やはり、なにかしら、特別な力を感じている。
 会田は、徳内とはのちに本多の音羽塾でともに学ぶが、徳内のことを「異人」と称している。変人、奇人は多いが、異人と呼ばれたのは、おそらく、徳内しか記憶にないし、それ以外に想いつくのは、「赤い靴、はいてた、おんなのこ〜・・・・、」の異(国)人さんのみである。その異人さんから絶賛を浴びている。1826(文政9)年に徳内は日本橋の薬種問屋であり、オランダ商館人らの定宿である「長崎屋」を訪ねている。これが、3度目で、ようやく、目的を果たすことができた。シーボルトとの面会である。徳内72歳、シーボルト31歳であった。一目で、ふたりは「(年は離れているけれども)はらから」となったようである。
 《十八世紀における最も卓越した探検家》
 シーボルトが徳内をあらわした精一杯の言葉である。
 徳内はシーボルトに自らの成果を含め、情報を出し惜しみしなかった。今でいえば、情報公開なのであるが、当時はご禁制が含まれており、のちにシーボルト事件となるが、さいわい、徳内は免れた。徳内に他意はなかったと思う。まだ、楯岡で煙草切りの行商をしていた頃に、お得意客にしてもらったように、訊かれたことには答える、ただ、それだけのことでしかなかったように思う。(シーボルトへの畏敬の念は別にあるけれども)

 蝦夷探検以降の徳内については、いまさら記すこともない。

 むらかみへの訪問は以上である。おまけ(神町など)もたくさん付いた。

 河北はじめ各所で、もう、ひな祭りが始まっている。村山駅でいただいた小冊子によると、村山地域14市町で、2〜4月にかけて、続く。むらやまは全長43メートル、4700体のロングひな祭り(3月20〜25日)、谷地ひなまつり(河北町)は月遅れの4月2〜3日、同両日、大石田でも各家の自慢のお雛様が公開される。最上、庄内、置賜(おきたま)においても雛の華が咲くそうである。
やまがた雛のみち」(山形県村山総合支庁)

[参考]
森銑三氏「最上徳内日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
秦恒平氏「湖(うみ)の本 32 北の時代=最上徳内
司馬遼太郎氏「街道をゆく/本郷界隈」
大成建設?週刊文春コラム「立ち話」
・不屈の北方探検家・最上徳内(1)
・不屈の北方探検家・最上徳内(2)
・不屈の北方探検家・最上徳内(3)
なお、「蝦夷草紙」は北大附属図書館北方資料室によって閲覧可能である。(ただし、判読困難)
・蝦夷草紙(上)
・蝦夷草紙(下)