黒岩比佐子(くろいわ・ひさこ)さん

 アンメルツの謎はいまだ解けていない。いいえ、もう、これ以上、追うつもりもないのであるけれども、二度ほど、《按摩(あんま)の瓶詰》の画像を使用させていただいた、「古書の森日記 by Hisako」のことを記しておく必要がある。その際は、画像ばかりに気がいっていて、申し訳ないことに、サイトには目が向いていなかったけれども、後日、あらためて、みると、このサイト(ブログ)の持ち主が標題の黒岩さんであると知った。URLをよくみると、hisako 9618、とあることに、もっと早く気づくべきである。『「食道楽」の人 村井弦斎』で、2004年度サントリー学芸賞「社会・風俗部門」を受けていらっしゃる。わたくしは、少食であるものだから、まだ、読んでいないのであるが、村井弦斎(むらい・げんさい)という人は、明治期〜大正期のジャーナリストであり、今でいうところのグルマン(少し、異なるかもしれないが)でもあったらしい。
 「このころ、『食道楽』で人もうらやむ大成功を収めた弦斎は、大隈重信後藤象二郎の親戚である美しい妻と子供たちと共に、神奈川県平塚市に約一万六千四百坪の土地を得て、自給自足に近い田園生活を楽しんでいた。・・・」
 以上は、黒岩さんが05年に発表された『日露戦争 勝利のあとの誤算』という著作の一部である。全体に張りつめている調べにある同著の中では、ちょっと横道(道草)のようでホッとする章でもあるのだけれど、趣旨は村井氏がロシヤ軍兵士俘虜を厚遇したという事実をあらわすためである。村井氏の経緯については、また、いずれと思うけれども、父君である清氏の『西洋十字文』を読んでも、例のごとく、判読不明、同じ言葉であるはずなのに、読めない、自分が恥ずかしいと思っている最中である。日露戦争というのは、日本の歴史にとって、ひとつの転換点であるということは、黒岩さんが同著のあとがきに標されているように、司馬遼太郎氏がもっとも「気」にかけていらっしゃったことではないかと、わたくし自身も認識している。もう、どの作品でかは記憶にないけれども司馬氏が数々の名著を書くきっかけは、江戸そして明治を大きく活(生)き、死んでいった人たちの上に成り立った新政府が何故、その後、機能しなくなったかという疑問からであったと書かれている(このことは、わたくしの薄い記憶に頼っているので、また、記・改めたいと思う)。確認しておくと、日露戦争というのは、明治37(1904)年2月8日に始まり、翌年の9月5日に締結されたポーツマス講和条約までをいう。有名な、日本海海戦は同年(05)の5月27日に当時、世界最強といわれた、ラジェーストヴィンスキイィ総督率いるバルチック艦隊東郷平八郎司令官(大将)が指揮する大日本帝国海軍がおおかたの予想を覆して破るという大金星をあげたことが突出して、その後も語り継がれていた(いまは、ほぼ、そういうことも、ない)。
 平坦ではあるけれど、ベースボールでいえば、二軍が一軍に勝ったようなもので、二軍一同は手放しで、歓喜し、45(昭和20)年に、そのツケを負い、今もって、完済していないどころから、利子が脹(ふく)らんでいる。
 黒岩さんが、それについて追っている。タイトルに惹かれて、(数か月前に)求め、読んだのが、前著であるが、まさか、按摩の瓶詰が、とは思わなかった。黒岩さんの言葉をお借りすると、「そのあとの(うれしい)誤算」である。
 「二〇〇五年九月五日 日比谷焼打ち事件から百年後の日に」
 というのが、あとがきの終わりである。
 日比谷焼打ち事件というのはロシヤとの戦争に「勝った」帝国日本が、やれ、賠償金だぁ、カラフト委譲だの、と膨らんでいた皮算用が外れたものだから、こぞって、その不満を、新聞や雑誌が囃したて、「群集」が日頃のやるかたなさ(憤懣)もノセて、ノッタという数日間のできごとである。厖大な資料をもとに、検証されているのが、前著である。中でも、交番やら、新聞社を焼き尽くしていく「群衆」なのにもかかわらず、商店の物を盗ることはなかったと同書にあって、もちろん、今以上に「あらひとかみ」のご存在が大きいとはいえ、群衆(集)から公衆という、以前から、悩んでいた変態(これは、いわゆるヘンタイではなく、環境に応じて成長するという意味である)について、示唆していただいた。
 ガブリエル・タルドについては、のちほど、また(いつになるかは分からないけれども)。
 ロシヤはというと、もうすでに、帝政は崩れかかっており、17年には手折れた。日露の戦いというのはJリーグであらわせば、デビジョン1と2の入替れのようなものであり、両国ともに、不安定な国情であったことは、その後の歴史を振り返れば、分かるような気もするし、だいいち、プレミアや、リーガエスパニョ〜ルににょこにょこと出てくる「チーム」ではなかったと思う。余計なことを記せば、いまだに、やはり、日露関係は引きずっている。このことは、山形・村上の拙ブロ(予定)で、また、ふれたいと思う。
 日露戦争は、わたくしの中では、正(征)露丸、ならびに上記、東郷大将および乃木希典(のぎ・まれすけ)大将しか、ない。東郷大将が海で、乃木大将は陸である。明治は1912年に終わった、当たり前であるが、あらひとかみが崩御したということである(公式記録は7月30日である)。同年9月13日に乃木大将は伴侶ともども、自決している。殉死といわれている。森鴎外翁は「興津弥五右衛門の遺書」でプラス1程度の書き方をしていらっしゃる。この作が歴史小説の最初ともいわれ、洋の西周(にし・あまね)から国(邦)、福羽美静(ふくば(わ)・よししず(びせい)へとヘンタイした時期と重なっているのかもしれない。「こころ」というのは、そういう印象でなかったけれども、改めて読んでみると、夏目漱石伯は、相変わらす〓徊(ていかい)である。だから、プラスマイナス(±)ゼロ。
 龍之介さんは、プラス1を超えようと、そちらに向かいながら、〓徊を通り過ぎて、マイナス(新たな世界)へと、走っている。最後の何行かである。以下、「将軍」(青空文庫)より引用する。
「しかし青年は不相変(あいかわらず)、顔色(かおいろ)も声も落着いていた。
「無論俗人じゃなかったでしょう。至誠の人だった事も想像出来ます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりのみこめないのです。僕等より後(のち)の人間には、なおさら通じるとは思われません。……」
 父と子とはしばらくの間(あいだ)、気まずい沈黙を続けていた。
「時代の違いだね。」
 少将はやっとつけ加えた。
「ええ、まあ、――」
 青年はこう云いかけたなり、ちょいと窓の外のけはいに、耳を傾けるような眼つきになった。
「雨ですね。お父さん。」
「雨?」
 少将は足を伸ばしたまま、嬉しそうに話頭を転換した。
「また榲〓(マルメロ)が落ちなければ好(い)いが、……」
 マルメロは形でいえば、諏訪あたりでよく採れるカリンのようであって、いずれも、まんまでは食用に適していないらしい。だから、抛っておいて、自然と、成ることを、少し、甘さ(砂糖の類)でもって、柔らかくして、その後、ひとの舌を、胃を、堪能させるらしい。それだけ、一筋縄ではいかない、果物なのである。もちろん、「また、・・・落ちなければ、好いが」は乃木大将のことであり、龍さんが直感した、「その後」は、着実に、只今も進んでいて、世代間格差どころか、毎日、マルメロは落ちている。
 しかし、龍さんの時代には、ら・ふらんすはなく、この実(み)は、今のところ、さいわいに、落ちてはいない。

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 1月19日〜3月2日まで「神奈川近代文学館」において、《収蔵コレクション展「『食道楽』の人 村井弦斎展」》が開(ひら)かれており、少し、間近すぎるが、明日(2月2日)には、黒岩さんの講演がある。お近くの方、ご興味のある方、大食漢(グルマン)の方は、どうぞ。